昼過ぎくらいには森の奥に入り込んでいた。あまり頻繁に人が立ち入る地域でないのは地面を見ればすぐ分かる。獣道以外足跡らしいものも見当たらない。
どこからか甲高い鳥の声が響いている。他には…どこかで草をかきわけるような音もしている。何か大型の動物がうろついているようだ。
「この辺かな？群生地は…」
ホイッパ草は群生する習性がある。だからその群生地が見つかれば一番いいのだが…。
「レイン、なんでもいいから話をして。あなたの声だったら踊るからすぐ分かるわ」
「え？あの、その…えと」
「なんでもいいのよ」
邪魔な下草をナタで払う。開けてはいるが、ちょうどいいくらいに背の高い木が集まっている。土の状態も悪くない。
「…レイン？」
「でも…」
「ん…そうね、歌でもいいわ。いつも歌ってるやつでもいいし」
「歌なんて…むりです…」
「どんなのでもいいのよ。あたしが知らないやつでも」
「でも…」
下を向いたまま、顔を上げようともしない。
…無理かな、この子には。いきなり歌え、って言われても。
「じゃ、あたしに続いて？ いい？」
ドリスは大きく息を吸い込む。
「はい、いらっしゃいませ！ お客さん。打ち身擦り傷だったらピルラ草、軽い風邪ならオムケカの実、腹下しには、これ！ このホニの木の皮を煎じて飲めば…」
レインは黙ったままうつむいている。ぎゅっと握り締めたこぶしがかすかに震えている。
「…レイン？」
…涙？
「あたし、ほんとのルートセラーじゃないんですううう…」
少しずつ周りの草が揺れ始めた。
レインの泣き声に反応してあたりのホイッパ草が踊りだしたのだ。
踊る、と言ってもそれほど激しいわけではない。小さな葉をよじるように動かす。それだけでもこの穏やかな森の中、群生していればどこにあるかは一目瞭然だ。
しかし…。
ドリスはあたり一面で葉をよじって踊っているたくさんのホイッパ草と、顔を覆って泣きじゃくるレインの顔を見比べるしかできなかった。
夕方前にはあの宿屋に戻ってきていた。酒場がはやり始める時刻。すでに何人かそれらしい客もいる。
おじさんはテーブルを拭いていたが、ドリスに気付いて顔を上げた。
「おや、お帰り。どうだったかね？」
ドリスは黙ったまま皮の袋を持ち上げて見せる。
「ほう…？ やるもんだねえ。どうする？ うちで換金もやってるよ。買い手も紹介できるけど？」
「…そうね。じゃ、買い取ってくれると嬉しいわ。…いくらでもいいから」
皮袋を受け取ったおじさんは、金庫から金貨十枚を渡してくれた。相場である。
「どうしたんだい？ 機嫌悪そうだね…。ホイッパ草も採れたんだろ？ 結局見つからなかった、って連中もたくさんいるのに」
慣れた手つきでホイッパ草を鉢に移している。そこまで神経質な草でもないので植え替えをしても問題はない。
「ちょっとね」
宿屋の外でかあ、と声がした。ファイーナだ。
「カラス…？」
「ああ、あれはあたしの友達。…ねえ、酒場もやってるんでしょ？ これで飲ませてくれない？」
さっきの金貨十枚をテーブルに投げ出す。
「それから、これ」
「タブレット…？ お前さんのじゃないね」
「レインの。もう必要ないわ。承諾書も破り捨ててくれると嬉しい」
「そうかい…」
何かあったな、と感じたおじさんは酒場の片隅でテーブルをはさんでドリスと向き合っていた。
すでに酒ビンが何本も転がっている。
ファイーナが足元でパンくずをあさっている。おじさんが中に入れてくれたのだ。他の客も面白がって餌を投げたりしているのでファイーナも大喜びだ。
「おかしいと思うながやき。なあ、そう思うがでしょう？」
珍しく酔っている。薬酒の味見？をよくやるので彼女はそれほど弱くないのだが…。
「たしかにな…まさかそうなっていたとはねえ…」
「んもう！ そうなっていた、じゃないが。ふざけるのもいいかげんにして欲しいがよ。何考えとうとや…」
「タブレットと名前欲しさにね…じゃ、あの子の本当の名前は？」
「フラニチカ。フラニチカ・ラッセン。いーい名前じゃないの！ …とっと…と」
「おいおい大丈夫か？」
どうやら彼女の話を総合するとこういうことらしい。
あのおとなしい女の子はレイン・コホサリ本人ではない。本当の名前はフラニチカ・ラッセン。
レインはコホサリ家のご令嬢。フラニチカは庭師の娘らしい。
どこかでレインがルートセラーの話を聞いてきたらしい。でもいくら誰でもなれる、と言われても自分がなるのはまっぴら。だったら誰か使用人の娘を仕立て上げてタブレットをもらって、自分の名前がルートセラーとして認められた、と自慢しようと考えたらしい。フラニチカが選ばれたのは薬草のことが好きだったのと、おとなしかったから。
ドリスは泣きじゃくるフラニチカからその話を聞き出すと、ホイッパ草を一株だけ持って帰ってきた。
コホサリ家に乗り込もう、とまで考えたらしい。だけど、フラニチカが必死に止めるから思いとどまったらしい。お嬢様は飽きっぽいからすぐに忘れてしまいます、だから…と。
フラニチカはそのまま帰した。不完全燃焼なのはドリスだ。そしてここに酔っ払いが出来上がる。
「やれやれ…」
ドリスはそのままテーブルに突っ伏して眠ってしまった。ファイーナが心配そうに片目で見上げる。
「お前のご主人は面白い人だねえ。気に入ったよ。…ワシの言うことが分かるのか？ん？」
今度は首を傾げておじさんを見上げる。
「よし、これをな、この町で一番大きな家の前に落としてきておくれ。ごほうびは…これだ」
肉の脂身をひとかけら、ちらつかせる。ファイーナは嬉しそうに跳びはねる。
「ちょっと待っておくれよ…よし。この紙切れだ。いいね？ やってくれたらこのごほうびをあげよう」
理解できたかどうかは疑問だが…ファイーナは硬く縛った紙の筒をくわえると、おじさんが開けた窓から飛び立った。
「んあ…？」
…なんでベッドに…もう昼？
どうも昨日のことが思い出せない…？
「…あれ…」
ぼりぼりと頭をかく。
自分の背負子ものぼりもきちんと部屋の中に置いてある。宿屋に泊まるなんて久しぶりなのに…。
「起きたかね」
ノックの音がしておじさんがはいってきた。
「あ…」
「気分はどうかね？昨日はよく呑んだからねえ」
「あ…ごめんなさい。何か変なこと…しました？」
おじさんは大きな声で笑い出した。
「ははは。とんでもないことをしたよ。ま、お客さんが来てるよ。降りておいで」
「…フラニチカ？」
「はい。おはようございます」
昨日とは全然違う、はじけるような明るい笑顔だ。
「ありがとうございます。私、ドリス先輩のおかげで本当のルートセラーになれました。ほら！」
承諾書…フラニチカ・ラッセン。タブレットも…本名だ。
「あたしのおかげって…」
「コホサリ家が正式にこの子をルートセラーと認めた、ってことだ。今すぐじゃないけどな。見習、ということだ。しばらくはワシのところで修業してもらうがな…その間の費用も全部コホサリ家持ちだ」
「はあ…それが…なんであたしの？」
「ドリス先輩が大旦那様に直談判してくれた、って」
「いや、あたしは…」
酔って寝てた、と言おうとするのをおじさんがさえぎった。
「うむ。さすがに大旦那様と言えども現役バリバリのルートセラーには説得されたようだな。レインお嬢様もきつく叱られたらしいじゃないか。おわびにこの子を正式なルートセラーにしてやってくれ、とは名案だ」
意味ありげに目線を送る。
ドリスには何がなんだか分からないのだが…。
「…いいのかしらん」
「構わん構わん。いいルートセラーになりそうだ、あの子は」
フラニチカとも別れたポクンの町はずれ。おじさんはぎりぎりまで送ってくれた。
「ま、あの子の笑顔が見れただけでもいいのかな…」
「そういうことだ」
「ところで…おじさん、何者？ ただの薬協の係員には見えないんだけど」
「ワシの名前はサルート・ジロドワ。おせっかいなオヤジだよ。フラニチカには言うなよ」
ぱんぱん、とドリスの肩をたたく。
「元気でな。ドリス・アンフェルン…それからファイーナ」
それだけ言うと豪快に笑いながら去って行ってしまった。
分かったような分からないような顔をしているドリスと満足そうなファイーナを残して。
サルート・ジロドワ。
ミヒャエルス王国特別海運査察部長官を勇退後、自ら興した海運業をコホサリ家初代当主に譲り渡した人物。彼がいなければ今のコホサリ家はない。今でも貿易業界に絶大な影響力を持っているが、うるさい世間を嫌ってひなびた宿屋を経営しているとか。現在、彼の居場所は誰も知らないらしい…。
彼女がそんな話を小耳にはさんだのはだいぶ後になってからだった。
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