「詠唱なしだからそんなに大した効果はないもんさ。しかも、いくら足が速くなってもそこは人間だあね。走り慣れてないやつは後で地獄の筋肉痛が待ってるのさ」
先ほどとは違う、にしし、と含んだように笑う。
「あいつならそう問題ないがね。精霊てのはああいう風にも使えるってこった。覚えとくと後で便利ってもんだね」
ディクシィがばたばたと二階へ上がるのと入れ違いに一人の男性が降りてきた。男性、と言っても年の頃も背の高さも未来とそれほど変わらない。変わっているのは、その手に大きな剣を持っていることだろう。
「あの女、またなんかドジやったのかよ？ うるせえことこの上ねえぜ。…おーう、ガト、お帰り」
慣れた手つきで剣を回転させるように背負い、大きくあくび。…と、テーブルに見かけない顔を見つける。
「およ…？」
「ミライだ。おいらが拾ってきたのさ」
「…ども」
軽く頭を下げてみせる。
「あ…ハリエルだ。なんだ、その、まあ…ゆっくりしてきな。…ガト、俺はちょっと出るから。武器屋へ行ってくる。すぐ戻るけどよ」
鼻のアタマを軽くかきながらそそくさと出て行ってしまう。
「…？」
「照れてるんだ、まあ気にすんない。そのうち仲良くなれるだろうから、よ」
何のことか分からない。そもそも自分はなぜここに連れて来られたのか、それすらもよく分からない。分からないのだけど…なんだかそれもいいかな、とか思い始めてしまう。
ところで。ここは酒場ではない。宿屋のようなものだ…と未来は知らされることになる。
太陽が上り、明るくなってくるとちらほらと人が集まって来た。ちらほら、と言っても一人一人別々に行動しているわけではないらしい。しばらく見ていると三人から五人くらいのグループとなって行動しているというのが分かる。
「よう、ガト」
顔見知りなのか、ほとんどがガトに話しかけてくる。そしてガトが未来を紹介する。
「おう、よろしくな」
と、これを何度も繰り返すことになる。…似顔絵か何かに名前書いて、壁にでも貼っておいた方がいいんじゃ…？ と未来は正直に思ったものだった。同じ事を20回ほども繰り返させられれば、誰でもそう思うだろう。
それでも未来は来る人たちの、あまりにも自分とかけ離れた姿に最初は驚いていた。自分は普段の寝巻き用の赤いジャージ姿だったのだ。それも外へ出るつもりも何もない着崩れた、あまりカッコ良くないもの。しかしここへ来る人たちは鎧のようなものを身に着けていたり、立派なローブのようなものを着ていたり。丁寧に刺繍されたマントを羽織った人までいる。
そしてさらに目を引いたのは大きな剣や細い剣、あるいは弓矢、あるいは槍などを皆が身に付けていることだった。逆に彼らから未来はどう見えているのだろう？ そういった武器も何もない、明らかに違う格好で…。
「はい。お待たせ。ミライ、これ着てみてくれる？」
いつの間にかディクシィが満面の笑みで立っていた。手には自身と同じような、町娘がよく着るゆったりとした服装。すその長いワンピースになっているようだが、下にはズボンをはくようになっている。いかにも動きやすそうな格好。
「えっと、ディクシィさん…」
「ディクシィでいいよ。遠慮なんかしないで、さ、こっちこっち。あたしも着替えちゃおうかな」
「お。なんだ、ディクシィ着替えるのか？ 俺が手伝ってやろうか？」
「おあいにくー。新しいお友達が一緒なの。ついて来ないでよ？」
「よく言うねえ、こないだまでこおんな小さかったのにね」
「若いもんはいいねえ、成長早くて」
「じいさんだってこないだきちっと仕事してたじゃねえか」
「そうそう。まだまだこれからこれから。じゃ、また後でねー、ガト」
「ああ。転ぶなよ…って言った端からすっこけてんじゃねえよ、何やってんだ？」
「だって、だって…」
思わず肩を貸してしまう未来。
「足がね、なんか痛いの…」
「『地走り』の影響か…もう出たのかよ…」
「ちょっとしたら治るんだけど…いつものことなんだし」
こんな風にがやがやと騒がしいのはやはり酒場だからだろうか、と未来は思っていた。声の渦とでも呼んだらいいだろうか。あまり未来の好きな状況ではない。
「ん？ 違うよ？ ここはねえ…宿屋みたいなもんかな」
二階の、さっき洗濯物を干していた部屋。さっきまで落とした分をもう一度洗濯し直していたらしい。
「…宿屋？」
「そういう感じかな。だって、あたしやガトやハリエルはいつもここに泊まってるし。あ、正式な宿屋ってのは他にあるの。えっとね」
窓を大きく開けて、ぐるりと見回す。二人ともまだ着替えてる最中なのだが、あまりそういう意識はないらしい。
