ぽん、と炊飯器のスイッチを入れる。一時間ほどタイマーをかけておくのを忘れてはいけない。まだ誰も帰ってきてないのだから。
夕食の仕込みはほとんど終わっていることが多い。明夫が帰りに何か買ってくれば別だが…まず買ってくることはない。食費は毎月のお小遣いとはまた別になっていて、レシートをきちんと持って帰ってくれば父・羽佐人が換金してくれるようになっている。が、それ以前に明夫は部活があるので帰りに悠長に買い物するヒマがないのだ。
そこで冷蔵庫を開けてみる。と…大きな鍋が、どん、と居座っている。昨日のうちに仕込んでおいたのだろうか…かすかにカレーのいい匂いがする。フタを開けてみるとはたして大鍋いっぱいのカレー。これなら温めなおすだけで夕飯になる。さらに一晩寝かせてあるから美味そうである。
「あ。明日の朝食も明夫か…」
ついでに明日の朝食もコレにしてしまおう、という魂胆か。いつもは朝はパン食の明夫だが、カレーともなれば話は別。目の前には未来がようやく抱え込めるような大鍋。しかし明日の朝までには全部消えてしまうだろう。そのほとんどは明夫の胃袋に納まってしまうのではないだろうか。
…今から温めておいてもいいかな。
付け合せは明夫がやる、として…これだけの大鍋。コンロで丸ごと温め直すとなるとかなり時間がかかるだろう。小分けにして電子レンジを使う、という手もある。だがあの明夫のことである。相当な回数おかわりすることだろう。そのたびにいちいち電子レンジを使う、というのは電気代がどう、と言うより普通にめんどくさい。とろみのある食材は電子レンジでは温めにくいのだ。
制服の袖をまくって、じっくりと。コンロでカレーを温めるには弱火から中火で常にかき混ぜ続けないと焦げ付いてしまう。だから、ゆっくり、ゆっくりかき混ぜていく。
…でも…。
ゆっくり、じっくり。じっくり、ゆっくり。
…本当に、何か用でもあったのかな…？
啓児のことである。何か用があったとすれば…一体何だったのだろう…？
…明日、真記かかしこに聞いてみようかな。
深く、突っ込んでいるおたまを鍋の底でぐるりと回す。ブロック状に固まっていたカレーがゆっくりと崩れ始める。ぼこっと噴火口のような音がする。鍋に接している端っこからふわりと湯気が立ちのぼり…どろりと溶けていくのが分かる。
…何か、知ってるかも。
…でも…昨日来たばっかりの転校生なのに。
その点では未来も真記もかしこも似たような状態のはず。どんな人間で、何か用があったのか、なんて分かるはずもない。
…直接、聞いてみようかな。
同じクラスなのだし。席も遠くないのだし。
…でも…。
おたまから伝わるカレーの感触が柔らかくなってきた。さらに火を弱くして…ぐるぐるとかきまぜ続ける。
明夫や皆が帰ってきたのはちょうどご飯が炊けた頃合。さらに明夫はなぜか四枚のトンカツまで買ってきていた。
「なんだ、珍しいな。お前が帰りになんか買ってくるなんて」
「いや…ちょっとね。来週からオレ、部活が忙しくなるからさ」
惣菜屋さんがたまたま安売りしてた、ってのもあるんだけどね、と。今日はカツカレーにしてしまってついでに来週からの当番よろしく、というわけ。
「…未来、どうだ？ おいしいか？」
羽佐人が声をかける。週に何度か残業その他があって家族そろって夕食をとれない日もある。だが、そうでない日はこうやって夕食時に間に合うように帰ってくる。
「え？ ああ、うん、トンカツ久しぶりだし」
こういった手の込んだものはなかなか作れない。しかも明夫が行った惣菜屋さんは近所でもちょっと名の知れた店。パン粉のサクサク感は言うに及ばず、衣も厚すぎず薄すぎずちょうどよく…肉の感触も柔らかい、と評判のトンカツなのだ。
「そうか…」
「来週からどうするよ、未来」
先守が弟と競うようにカレーをかきこむ。これですでに二杯目。しかし明夫はもう三杯目を平らげつつある。…明日の朝食の分が確保できるのかどうか、ちょっと怪しくなってきている。
「当番…わたしは、別に用事ないから。兄ちゃんは？」
「…俺も、ないっちゃあ…ないな。特には。父さんは？」
「私も特にないよ。今月は仕事も落ち着いているからな」
さすがに子供たちのようにかきこんだりはしない。丁寧にスプーンを使う。それでももう一杯目がほとんどない。おかわりをするのだろうか？
「お前たちで先に決めたらいい。余ったところを私がやろう」
「そっかあ…じゃ、俺がとりあえずの表を書いとくから、未来、先に修正してくれ。父さんはその後で、ってことで」
カレー食べて風呂に入って。…なんだか皆につられて未来も二杯目を食べてしまった。それでもちょっとずつあるから明日の朝食はやっぱりカレーだ、と明夫が宣言していた。他の三人はともかく、自分の足りない分はパンでも食べて行くのだろう。
…さあ…寝よ。
宿題はないし…明日の準備は終わってる。…マクラの下には…その辺にあった「何か」を入れてその上からぽんぽん、と叩いて…眠りに落ちていく未来だった。
