何を…言っているのだろう。
しゃがみこんでいるが、啓児はこちらに顔を向けている。右手で相手の頭をつかみ上げ、左手は親指を曲げて四本の指を揃えている。まるで刀剣のようだ。…あのハリエルの大剣の先端のような。その先は喉元をきっちりと狙っている。そうとしか未来には見えない。
「何を…言ってるの…？」
そのつぶやきを聞いて。あ。しまった…とでも言いたげに左手であたまをかく。その仕草に殺気や殺意はみじんもない。
「そうだった。ここではそういうことをしてはいけないんだった。…そうだね、そうなんだよね」
ここまで時間が経てば、さすがに誰かが気づく。そもそも全く人通りのない場所ではないのだ。道端で高校生と若い男がケンカしている…とかそんな風な通報でもあったのだろう。やがて警察官が数名、現場に駆けつけ啓児と若い男を引きはがした。野次馬も集まってくる。中にはやや遅くなった帰宅部の連中もいる。さらに若い男の黒いワンボックスカーを何度もこの辺で見た、とか言い出す地元の人も出てきて…辺りは騒然、となってきてしまった。
未来と啓児もパトカーに乗せられて警察署で事情を聞かれることになった。
その警察署では別の部屋で事情を聞かれることになり…啓児は一足先にパトカーを降りる。そして少年課の警察官何人かと入り口へ向かう…。
「福田さん」
くるっと振り向く。
「知ってるよね…キュリオス。知ってるんだよね？」
それっきりで警察署の中へと消えて行った。
…キュリオス…。
未来も小さな部屋に通される。テレビなんかでよくある取調室…とかそういう場所ではない…と思う。古びた応接室といったところか。案内してくれた若い婦人警官がお茶を出してくれたりする。
すぐにトーダが来た。羽佐人にはすでに連絡を入れたと言う。じきにここへ来るのだろう。
「すまなかった、すまなかったなあ…福田」
部活を勧めていたのも何件かそういう不審者情報があったからだ、とのこと。
「いえ。何もなかったですし」
…助けてもらったし。
「念の為に明日は学校休みということに…」
「いえ、その」
…だから何もなかったんですって。
「そこまでする必要はないんですけど…」
今度は啓児と一緒に警察署へ来た、少年課の婦人警官が来る。彼に色々事情を聞きたいのだが、親権者の方と連絡つかないだろうか…と。できたら同席して欲しいのですが、未成年でもありますし、と。
「ああ、そういうことですか…」
汗をふきながらトーダ。
「七咲君は一人暮らしなのです。親権者の方はすぐには帰国できないそうですし…そうだ、私の同僚がじきにここに来ますので、私が同席しましょう」
…一人暮らしなんだ、あの人。
そういう生徒がいることを、未来も知らないわけではない。遠くから通ってくる生徒もいるが、事情があって家族と住めない生徒もいる。ただ、未来にはどんな状況になるのか、一人暮らしというものに対して今一つ実感がわいていない。
そしてサキ先生と…羽佐人が来た。サキ先生とトーダが羽佐人に深く頭を下げて謝罪して、羽佐人が、いえ、娘は無事だったのですから問題ないのです、頭を上げてください、と答える。そしてサキ先生と入れ替わりでトーダが啓児のところへ行く。目まぐるしく動き回る大人たちを見ていると、なんだかこっけいな舞台ような、ちょっとした喜劇でも見ているような気になってくる未来だったが…。
「…良かった。本当に、良かった」
座っている未来の目の高さに合わせて床に膝をつき、左手を肩に置いて右手で未来の左手を握ってくる羽佐人。
「父さん…」
痛い。左手が痛い。それに右肩に置かれた手が小刻みに震えている。
「うん、うん。良かった…何もなくて良かった…」
目が潤んでいる。その目には…未来に向けられていなくても、怖い、と思うほどの怒りがにじんでいた。
未来への警察からの取調べ？はそれほど長くはかからなかった。そんな車がよく止まっている、ということすら知らなかったのだ。帰宅部同士は知り合いでもない限り話をしたりすることもない。だから他の連中が何か知っていたとしても未来が知るはずがない。もちろんあの若い男と面識があるわけもない。
後は被害届を提出しますか、という話になる。羽佐人は「出します」と即答したのだった。
「うちの未来を助けてくれた彼に一言お礼をしたいのですが」
啓児の方もそんなに時間はかからなかったらしい。昨日転校してきたばかりの人間がそうそう色々なことを知っているわけもない。
