…何だろ、何の音だろ。
洗濯のばんどんという音ではない。明らかに何かが何かにぶつかったり引っかいたりしているような、重い音…がしているような気がする。
気がするだけ、かも知れない。早めに寝たのだけれど、これこそ夢、なのかも知れない。
ふ、と気づくと…朝の柔らかい光。静かな朝。
「あ。ミライ起きた？ 体はだいじょぶ？」
言われて腕を動かしてみる…昨日、いや、あっちとは逆にまだ少々の痛みはある。動かそうとすると何かがちょっとだけ引っかかるような。でも動くのに問題はない程度。なんだか痛めてから何日も経ってしまったような…そんな感覚もある。
「大丈夫みたい」
「よかった。あのままだったらどうしようかとか思ってたんだ。薬が効いたのかもね」
ディクシィの言う『薬』とはもちろんライカがくれたもの。あのまま飲んでいたらどうなっていたんだろう…と、あのぞっとするような臭いのオイルを思い出してしまう。
「…うん」
「ハリエルはちょっと用があってさっき出ちゃったの。そのうち戻ってくるから…さ、ベッド上げたらごはん食べよ？」
今朝の食堂は前ほど混んでいない…と思う。日によって混み具合が違うのだろうか。それとも何かあるのだろうか。
ディクシィと一緒にカウンター席へ。ハリエルが戻ってくるのならもう一つ、席をキープしておいた方がいいんじゃ…と思ったのだが。「大丈夫じゃない？ どっか空いた席に移動したらいいんだし」というディクシィのあっけらかんとした意見になるほど、とか思ってしまう。実際、ガラガラではないがぽつぽつと空席が目立ってはいるような状況なのだ。
「おっはよ、ディクシィ、ミライ」
今日の食堂当番はリンチャ。いつものように動きやすい格好だがエプロンのようなものを付けているので、やや印象が違う。そのポケットからメモ帳を取り出し…二人に向かって明るい笑顔で軽く手を振ってくる。
「で？ で？ 今日はどうする？ どうする？」
「えー、いつもの通りでいいかなあ…。後であの大喰らいが来るからさ、その時にまた頼んだ方がいいみたい。…ミライはどうするの？」
ここで初めて『メニュー』を見ることになる。タテ型で何枚かの紙が挟んであって…ファミレスにあるのとそれほど変わらない。
文字はもちろん日本語になっている。だから未来にも読むことはできるのだが…。
「ミライ？」
「え、ああ、うん…私もそれでいいかな、ディクシィと一緒」
「はいはーい、それじゃいつものスープといつものパンでいいのね、とりあえずそうしておくねー」
さらさらっと何かを書き込んで、駆けるように厨房へ。しかしよく見ると走っているわけではない。歩いている…にしてはスピードが速すぎる、ような気もする。何か特殊な歩き方もあるのだろうか。
ところで。未来が気になっていたのは『メニュー』の内容である。
ハリエルがよく頼んでいた「炒めメシ」もある。リンチャの言っていたようにあれはやはり「パン」だったらしい。「スープ」はいつも決まっているからそういう言い方をしたのかも知れない。しかし…『メニュー』には「スープ」の項目があっていくつか種類があったりする。
ホマル・ファース・ヒプラなどなど未知の語句がくっついている。これでは一体何のどんなスープか分からない。
これらは他の項目にも何度も出てくるから、何かの食材だ、ということは分かる。それにこういう気の置けそうもない宿屋の食堂で出てくるものだし…多分一般的な食材なのだろう。でもなんだかちょっと怖いような気がしてためらってしまう未来だった。
昨日と同じように壷のような鍋のようなものに入ったスープが来る。バスケットに盛られたパンも来る。ハリエルがいないせいか、やや小盛りに見える。
「これは…何のスープなの？」
恐る恐る、聞いてみる…。
「これ？ これは今日はホマルのスープね。昨日のはファースの骨を使ったやつだったっかな。毎日違うのよね、その日のうちで一番安いのをもらうことにしてるんだけどね。…そっか、ホマルが何か分からない？」
うん、とうなずく。香りが海産物系の優しい感じだからそっち方面かな、くらいは分かるのだけど。
「こんな感じのね、海の浅瀬にいるの。ここら辺では普通の食材かな」
両手の人差し指と中指を伸ばして…くっつけたり離したり。
「…エビ？」
「えび？ エビヤは果物じゃない。なんかよく分からないけど…岩のすき間にいたりするんだけど…あ、実物見た方が早いかな。今日はそんなに混んでないから厨房もヒマだろうし。ねー、リンチャー！ 今日の分のホマルって全部調理しちゃったー？」
ひょい、とカウンター奥から顔を出すリンチャ。ついでになんやなんや、という顔のマリカも。
「ん…まだまだ、一匹残ってるよ？」
「ちょっとミライに見せてあげたいんだけど…」
「そんならうちが持ってったるわ。リンチャはまだ仕事あるやろ？ そっちやっとき。ええわ、気にせんでも」
と、マリカがそこらの両手鍋に入れて持ってきたのは…。
…ザリガニ？ イセエビ？ いや、ロブスターっていうのかな…。
大きなはさみの大きなエビ。結構りっぱなもので、鍋からはみ出してくるのでは、と思うほど。もちろんまだ生きていてわさわさと脚を動かしていたり、はさみを振り上げたりしている。
