…父さん、いるかな…。
玄関のドアを開けて、鍵をかけ直す。
未来が帰る時間は先守より早いことが多い。部活のある明夫が一番遅い。先守も部活などはやっていないが、なんとか委員会で遅くなることもある。それでもどんな委員会なのだか未来は知らないのでどういうことをやっているか…そういうことも知らない。
興味がない、と言うよりも別にいっか…となんとなく思ってしまうのだろう、と未来自身も思っている。ちょっとそっけないかな、と思うこともあるけれど。前に行ったことのある真記の家なんかそりゃあ、騒がしいものだった。最初は姉弟がケンカしてるのか、と止めようかどうしようか迷ったほどに。ああいう姿にあこがれないこともないのだけれど。
『………』
羽佐人の部屋（書斎というほどもない）から小さく何か聞こえてくる。音楽でも聴いているのだろうか…。
…いるんだ、父さん。
時折こうやって早く帰ってくることがある。その時は大抵何かこうやって聴いている。
ちょっと迷ったのだけれど。こういうのは早い方がいいかな、ということで制服のまま部屋に近づく。
『…んかあった…あったもいいとこだ情けねえ野郎だな…』
…あ、落語か。
羽佐人の趣味の一つ。未来も前に何度かCDを聴かせてもらったはずなのだけど、ほとんど覚えていない。始まると必ず寝てしまっていたから。だから結構年取った人が何かしゃべってるな…くらいの認識しかない。今となっては積極的に聴きたいとは思わないし。
『…なんかしくじっ』『おおしくじりだよお。今俺おめえに話をして聞かせるからびっくらして驚くな…』
少しだけドアが開いている。すき間が少し。そっと覗き込んでみる。
…羽佐人はゆったりと椅子に腰かけている。手すりも背もたれもゆったりとした、大きな椅子。長身の彼でもすっぽりと納まることができる。机の上にはパソコンがあって、CDプレイヤーは別なところに置いてある。
『今朝俺ナニ行ったら、あすこの、どさくさのおめ、じゃねえ、あの浅草のナニ行ったろ、俺ぁあのー、ほらこんなことやりによお。えー、ほらあんだろ突き当りんとこ、おー、ほら拝んだ、あら、浅草の…』
背もたれに身を預けて、手を組んで目を閉じている。口元にかすかな笑みを浮かべて。
…なんかガトに似てるかな、こういうしゃべり方。
『…ああ、浅草のほら、えーとー不動様じゃねえや、ほらあんだろ浅草の、うん』『金比羅様』『そう金比…金比羅じゃねえや、こんちき、あ、観音様』
…こんぴらさん…かんのんさま？
『あはは、そうか買いに行ったのか』『うん。え、買いに行かないよ、バカ。ありゃ売りゃしねえんだからな。俺はお参りしてけえろうと思ったら…』
「…未来？」
そっと覗き込んでいたつもりだったのだが。さすがにバレてしまう。
「え、あ、うん…ただいま」
「お帰り」
そっと手を伸ばしてCDプレイヤーを操作して、止めてしまう。
「どうかしたのかい？」
…えっと…どうしようかな。
つい数年前までは何も考えずに駆け込んでいた部屋なのだが。ドアのところで立ち止まってしまう。
「何か…あったのかい？」
「いや、そういうんじゃないけど…」
ふと、目の前にはあの金色の背景の絵と、そして、羽佐人の困ったような顔。
「あれ…」
うつむきながらやはりピンで刺してある絵を指差す。一面金の背景に真っ青でもない、紫がかった青、の花と新緑っぽい鮮やかな葉が立派に咲き誇る朝顔だけの絵。
「これかい？ これは江戸琳派の絵で、鈴木其一の『朝顔図屏風』だね。屏風だから本物はとてもこんな部屋に入らない。複製でもそれなりに値が張ってしまうから…僕くらいにはこれくらいがちょうどいいんだ」
なるほど印刷された絵でそれほど大きくもない。横に長い印象なのは元が屏風だからだろうか？
「すずき…きいつ？」
「そう。江戸琳派はこの人で新しく花開いたと言ってもいいね。江戸の中期くらいかな」
…どっかで聞いたような名前なんだけど。
「それでね、あの…酒井抱一って知ってる？」
すると羽佐人はゆっくりと立ち上がって…朝顔の上に貼ってある絵を指す。
「これは酒井抱一の『八橋図屏風』と言うんだ。立派なかきつばただろう？」
やはり金色の背景にやはり紫がかった青のかきつばた…あやめだっけしょうぶだっけ…と綺麗な緑色の葉が描いてある。ただし、こちらには渡し板のようなものも描かれてある。
「酒井抱一は鈴木其一の師匠…うん、そんな関係になるんだ」
