辺りに人はいない。霧雨の薄いカーテンが下がっている。
それでも思わず見回してしまう。…誰か…見てないよね、こんなとこ。
『今さら驚くようなことかい？』
キジネコは耳を裏返しながら、こしこしと。
「いえ、あの、でも…」
『…誰か来たようだね。そのぺらっぺらの袋の中に入れとくれな。部屋にはあんた一人かい？』
「はあ、まあ、その…」
『じゃあ好都合だ。しばらく雨宿りもできそうだね』
未来の返事も待たずにレジ袋へ潜り込んでいく…キジネコ。
たしかに他の住人らしい若い女性がエントランス…マンションの玄関のちょっとしたスペースへとカサを畳みながら入って来る。顔見知り、というわけでもないのだけれど、軽く会釈して…エレベーターへ。後ろにレジ袋を隠しながら。相手も会釈を返して郵便受けを探っている間に…エレベーターに乗り込んで、目的の階数を押して、心の中で『ごめんなさい、ごめんなさい』を繰り返しながら「閉まる」を連打。
『なかなか快適だねえ、この中も』
のん気なもんである、突然の乱入者は。
…あーもう…。
一体なんだか分からない。実際、今日は先守はちょっと遅くなるし、明夫が部活、羽佐人はいつも通りだけど夕食には間に合わない、ということで未来が夕食当番、ということになったのだから、このまま帰ってキジネコを部屋の中に放しても問題はないのだが…。
…なんでこんなネコばっかなんだろ、わたしの周りって。
玄関のカギを開けて中に入る。…ひょい、と袋から飛び降りるキジネコ。どこかしなやかな動作。
…ガトだともっともたもたするかな。
と、ふと、そんなことも思ってしまう。
『…ふうん。きちんとしてるじゃないか』
「はあ」
とりあえずレジ袋から食材を取り出しながら台所へ。冷蔵庫へしまうものは先にしまってしまう。今日は羽佐人の分は作り置き、ということになっている。温め直すなら煮物で攻めたいなあ、とかそんなことを思いながらスーパーへ行ったのでそういう方面の買い物が多い。ちくわやさつま揚げなどの練り物とこんにゃく。いわしのつみれが安かったのでやや多めに少し買ってきている。特に先守がこれが好きなのだが、出来合いのものでもなんだか妙なこだわりがあって特定のメーカーのものしか好きじゃなかったりする（その辺の好みが結構うるさい）。今日はそのメーカーのものが安かったので買ってきたのだった。
他には厚揚げと卵。卵はパックだから生だが、これはあらかじめゆでておいて一緒に煮込む。煮物、というよりおでんのような感覚。でも明夫の好きな肉…鶏むね肉だけど…も後で入れるからおでんとは少し違った印象になる。
『へえ…色々あるんだねえ…』
未来の後ろについて歩きながら、ひょい、と前足だけ台所のシンク下辺りに引っかけてくる。顔だけこっちを見上げているから、その端正？な顔がよく見える。こんな海外の動画があったっけ、とか思ってしまうのだが…。
『ラザニアはないのかい？』
「ないです」
「あの」
とりあえず米を研いで卵をゆでるから他の食材は冷蔵庫へ放り込んで…。
「何の…用ですか？」
ちょっと語気が強かったせいか、一瞬、きょとん…と目を見開くキジネコ。
「用が…あるんでしょう？ ネコさん」
他に呼び方がないものか、とは思うのだけど。相手がネコには違いない。
『あー…そうか。これじゃあ…分からないか』
両手（両前足）を広げて見せる。自分の姿を確認するように。
『悪いね、他の旅人にはなかなか出会わないもんでね。会うのは大抵がよく知ったやつばかりだから、これでも問題はないのさ。…よっと』
上を見上げる。そして…背中を丸めて…真上に跳ぶ。…跳び上がるのではなく、どこかへ飛び込むような、真上に向かって飛び込む…？
すると。キジネコの周囲に小さな白い光が無数に生まれたように見えた。その光は白くても、冷えていない、どこか…暖かい、懐かしいような、光。その光を粒のようにまとったキジネコは、一瞬、未来の視界のはるか上へと消えていったような気がした。天井を突き抜けた…？ そういう風にも見えた。
しかし…キジネコのいたところには黒いフードをかぶった女性が座っている。その恰好や座り方には見覚えがある。
…へ？
いつの間に…？ キジネコが…？
フードをちらり、と上げて見せる。あの女行商人だ。
『………』
…えっと…？
