ちょっと恥ずかしかったのだが、キジネコは特に笑う様子もない。少し考え込むような様子を見せる。
『そうかい。じゃあ、寝てみようか』
「は？」
『旅人が渡るにはそれぞれに条件があるんだ。あんたの場合寝ないと渡れない。それに本が必要ってことだろ？ ずいぶんと単純な条件じゃないか』
…単純、なのかな。
たしかに他の旅人のことは知らないから（ガーフはともかく）自分の場合が複雑かどうか、そういうことも分からない。
『だから寝ないと渡れないんだろ？ ここでいい。さ、横になっとくれ』
…ここ、台所なんですけど…。
自分の部屋ならともかく。夕飯の支度しながらこんなところに寝っ転がる趣味は、ない。
『何やってんだい。さ、早く。寝るには十分な広さじゃないか』
「いや、その、えっと…」
『じれったいねえ』
「そう言われても…」
…ここ、台所なんですけど…。
『ダメなのかい？ なんで？ どうしても？ …じゃあ…こうしようか。私のやり方で一緒に行けるかやってみよう。…手を取りな』
ひょい、と右前足を前に突き出して見せる。
キジネコはネコらしく？腰を下ろして両前足を床につく、上半身だけを起こしているような格好。そこから、ひょい、と右前足だけを前に差し出す…いや、突き出している。イヌの「お手」と同じような体勢だけど、それよりもなんだか偉そうに見えるのはやはりネコだからか。
「でも…」
『私もやったこた、ないけどねこういうのは。でも意外とうまくいくかも知れない。さ、手を』
「はあ…」
しゃがみこんで、おずおずと…その小さな前足に触ってみる。ふにふにとした肉球の感覚。こっちからつまむように握ってみる。あっちからもしっかりと指を握り返してくるのが分かる。
『よし。じゃあ…行ってみようかね』
キジネコは右前足を未来にあずけたまま、軽くその場で跳ぶ。そして左前足から床へと突っ込む…小さな光をまといながら…！
と、そううまくいけば良かったのだが。
「痛い、痛い、痛いです、ちょっと、痛いです！」
キジネコの体は床下に消えてしまっている。床の上には右前足の先だけが小さな白い光の池に浮いているようにも見えるが…未来の指を掴んだまま離さない。それを無理やり床下に引っ張り込もう、どうにかして引きずり込んでやろう、としている。
『ありゃ？』
キジネコの顔も池に浮かぶ。ぺろり、と舌を出したりなんかしてみたり。
『ダメだったかね、やっぱり』
「…やっぱりって何ですか…」
ネコの力だからそのもの力は強くはないのだろう。だけど引っ張り込む力は想像をはるかに超えて強い。しかも放してくれないのだから痛い痛い。
『渡るにはもう一つ、重要なことがあるからね。それをやってないとまあ、無理だろうね』
平然、と言い切りながら顔を撫でまわしていたりする。
…やっぱりイジワルだなあ。
「…で、一体何が重要だって言うんですか」
もういいや、と煮物の用意に戻ってしまう。指先が痛いけど。
『思いってやつだね』
「…思い？」
『渡る先の世界のことを思いながら渡る』
「行く先が分かってないと無理ってことですか」
『そうじゃない』
『渡る先、渡ろうとする先のことを思うってことさ。それも強く、ね』
