…あれ？
ここは…学校の廊下。さっき曲がった角の先。ととと、と、つんのめるような姿勢から…なんとか踏みとどまっている。
周りには昼休み終わりのちょっと残念そうな軽い喧噪。生徒たちの遠慮のない話し声。もう少し経つと授業が始まってしまうのだ。そんなわずかなひと時を惜しむ、さわさわとしたしゃべり声。そんな声の波が伝わってくる。
…こんなの、なかった。
さっきの「世界」である。透明な壁に仕切られた「モノクロ芝生」の世界。
時間が止まっていたのだろうか…とかそんなことも思う。思ってしまうのだが…音もないのに風だけは吹いていた。その感触は肌が覚えている。
そこまで思い出した時、恐ろしいことに気が付いた。わたし…どうやって戻って来たんだろう…？ いや、どうやって渡ったんだろう…？
少なくとも自分の意思ではない。ただ、ただ角を曲がっただけなのだ。それが…いきなり渡ってしまった。「ヘルメット氏」の時は少なくとも妙な暗闇があった。しかし今は何もなかった。本当にただ歩いて…曲がっただけ。
…どうしよう。
いつもいつも何も問題のない世界へ渡ってくれる、とは限らないのではないか、いつもいつも自動的に戻ってこられるとは限らないのではないか。
…どうしよう。
無意識にぶるっと体が震える。
もしかしたら空気のない、酸素のない世界へいきなり放り込まれてしまうかも知れない。あれだけ様々な世界があるのだ（普通ではちょっと考えにくい世界である「ヘルメット氏」も「モノクロ芝生」も）そういった危険な世界だってあるかも知れない。
そんな世界にいきなり、ということも…？
「…みき？ どした？」
真記が後ろに立っている。いつの間にか廊下の壁にしがみつくような格好でうつむいていたのだ。
「え…？」
「なんか…顔色悪いよ？」
「…うん…ちょっと…」
「ほけんしつ、行く？」
かしこが心配そうに真記の肩から顔をのぞかせる。背の高い真記が自分の顔をのぞきこんでいるのだ、ということに気づくまで数秒、あった。
「いや、うん、だいじょぶ。多分…だいじょぶだから」
「んにゃ。大丈夫じゃないね。…かしこ、あたしちっと保健室連れてくわ。せんせに言っといて」
こくん、とうなずくかしこ。
「行くよ、みき。顔色真っ青じゃんか。ちょっと休んできなよ。あたしが一緒に行ってやるからさ」
未来の手を取る…。右手首を掴む真記の手の体温。
…今、渡ってしまったら…？ 真記も、一緒に…？
思わずそのあったかい手を振り払ってしまう。…怒ってるわけでもなく、困惑した表情の真記とかしこ。
「…みき？」
「ごめん、ごめんなさい、保健室、わたし、自分で…一人で、行ける、から…！」
後ろを見る余裕すらなく駆け出してしまう。
未来は屋上から降りてきている。保健室は一階だから階段を下りる必要がある。ここはまだ一つ階を下りただけで三階にある。未来たちの教室は二階だからやはり階段を下りないといけない。
いけないのだが…。
下へと向かう階段を目にして。ありそうな考えが頭の端をよぎる。
…一つ、降りたら…。
一段降りただけでもまた違う世界で渡る…いや、あれは渡るというものではない。
…飛ばされる…？
そう思うと、足が、踏み出せない…？
