ちら、と室内を見回す。
『ふうん…？』
ととと、と未来の前に歩いていく。音もなく。
未来は…ぼおっとした表情のまま椅子の上でうつむいている。力なく。目の前に細めのキジネコがいることなど…見えているのだろうか？
『ふん』
両手をついて座り込み、そのまま黒い瞳で静かに見上げる。
「ガーフ…」
ぱっかーん。
『…何やってんだいっ！』
「はうっ！」
「…ガーフ？」
啓児が見たものは…キジネコの小さな後ろ脚が未来のアゴを、下から的確に捉えたその瞬間だった。一瞬だけそのしなやかな体を沈めて、両前脚両後ろ脚で床を蹴る。その勢いを殺すことなく上体を仰向けに倒れ込むように引き、後ろ脚を前に押し出す。長い尻尾も忘れてはいけない。後ろ脚の押し出しには尻尾を振り抜くことでの微妙な重心の移動も有利。
さらにその尻尾は半円を描いて天井を目指す。
当然後ろ脚もそれにつられるように天を向く。後は空中で体の姿勢を制御できれば問題ない。腰を上手にひねることにより足先の向く先は若干の修正ができる。所詮はネコの足先だから未来のアゴ先を狙うには、ちと技術が必要だけど…さすがにその辺はなんとかしたようだ。
そしてくるりと一回転して見事な着地。…ついでに尻尾の先が未来の顔を下から上に撫で上げる、というオマケもついた。
『ふう。ったくねえ…目が覚めたかい？』
「…はうう…」
それほど痛いものでもなかったはず。ネコの足先なのだから。でも…。
『こうなるんじゃないかって思ってたのさ。やっぱりかい』
「……」
『何度も何度も渡ってるとね、身体が慣れてしまうんだ。身体ってのは面白いもんで慣れてくると次へ、次へ、もっと、もっと、って欲張りになっちまう。そうなると心も身体に引っ張られて知らないうちにどんどん欲張りになっちまう。意識してなくても、ね。渡りに才能だの生まれだのは関係ないのさ。あるのは…慣れ、だけ。時間かけて慣れていけばそつなくこなせるようになる。身体が慣れていけば心もそれに応じるようになる』
「でも…」
『情けない顔しなさんな！ あんたのことだから…誰か他の人を巻き込んじまう、とかどうせそんな風に思っちまったんだろ？』
「え。まあ…はい…」
…真記…。
それを聞くと、はああああ…と大きなため息。ネコのため息（しかも目を閉じて肩を落として）というの珍しいかも知れない。
『あんたねえ…こないだ、私が床下へ引きずり込もうとして痛いって泣いたの…もう忘れたのかい？ 慣れた旅人同士がシンクロしてやろうとするんならともかく、そうでもないのと一緒に渡るなんてできるわけないだろうに…』
「はあ…」
『要は身体が慣れればいいってこったね。ちょいと荒療治になるかも、だけど…オーパス？』
「え？」
それまでどう口をはさんでいいのか分からなかった啓児である。
『え？ じゃないよ。…そこのドア、開けとくれ』
「でも開けると…ガーフ、君のことが…」
ドアの外は普通に学校の廊下。もうすぐ昼休みも終わろうか、という時間帯だから何人も何人もが歩いているはず。これまでだって結構人の話し声が聞こえてきているのだった。そんな中開けたら…。
『いいんだ。あんまり時間もないんだろ？』
しかし啓児は戸惑っている。どうしたらいいかやっぱり分からないらしい。
『ああ、もういいよ。私が開けよう』
「ガーフ？」
しかしキジネコはさっさとドアのすぐそばまで滑るように歩いて行き…ちょいとジャンプ。失敗。だけど二回目で引き戸になっているドアの取っ手につかまることに成功。そして体を左右に振って勢いをつける…。
「あ」
「あう」
ドアのすき間から中をうかがっていた二人が転がり込んできたのだった。
