「きてん…」
『どこへ帰りたいんだい？』
「どこへ…」
風は吹かない。そしてここは…音もないことに気付いた。ちょっとだけ足を動かしてみると短い草、芝生のような草の感覚はある。それは靴の上からでも十分に分かる。そして目の前には緑の平原。永遠に果てなく続いているような気になってしまう。地平線を見たにはこれが初めてだっけ？
そして緑色は目に優しい。そう思っていたのだが、ここのは鮮やかすぎる。じっと見ていると目に刺さってきそうな…。
…何か、足りない…？
何が足りないのか。ちょっと分からない。
『で？ どこへ戻る？』
「えっと…」
『じゃあ…仮の起点をここにしよう。まずどっかに渡って、ここへ戻ることにしよう。本当に帰りたいところはまた後で、ということにするか。いいね？』
煮え切らない未来がめんどくさくなってきたのだろう。強引にさっさと決めてしまう。
「あ…はい」
『最終的にはあのガッコウとか言うところへ戻れればそれでいいんじゃないか？ どうだい？』
…たしかにそれなら。学校へ…戻れれば。
「…はあ」
『よし。さあ渡ってみようか。…自分から渡ろうとするにはいくつか方法があるんだけどね。…私の場合は…なんかもう慣れちまったからねえ…ふ、と思い起こすだけで十分なんだけどねえ…』
肩の上で腰を下ろしたまま、ひょい、と首を傾げてみたりしている。左前足を軽く曲げて、右前足を顔のそばに寄せてみたりして。『世界ネコ動画100連発！』とかそんなテレビ番組でこんなの流れたら人気出そうだなー、とかそんなことも思うけれど、やはり口には出さない。
『一つの相手として見る、だったか。自分の中のアレをダレかとして見る、とか…なんかそんなこと言ってたっけかな。よし。それで行ってみようか』
「はあ」
『あんたの中に旅人が一人いる、と思うんだ。そいつと会話…対話する、と思うといい。何かしゃべりかけたら何か返してくれるもんさ』
「…たいわ…」
『何でもいいんだ。口に出す必要もない。ただ…思い浮かべてみるといい。…やあ、とかそんなもんから始めるといいって、ね』
…どっかで聞いたなあ、そんなの。どこで聞いたっけ…。
そっと目を閉じてみる。
…やあ…お元気？
しかし返答はない。言葉として返ってくることはない、というのもどっかで聞いた気がする。
『対話だからね。そうだね…相手にどうして欲しいか、ってとこから考えてみようか』
「？」
『ええっとねえ…誰かとお話…いや、この場合は交渉みたいなもんか。あんたの中の旅人にあんたのやりたいことを分かってもらうって言うかね。多分あんたの中の旅人がどうしたいか、なんてのは…よく分かってないだろ？』
そう言われてもよく分からないのだけど。だからこんな答えになるのは仕方ない。
「まあ…そうでしょうね」
『じゃあこっちから意思を伝えるんだ。しっかりとね。そしてあっちの出方を見てみたらいい』
…じゃあ…こうかな…？
提案。水のあるところへ行ってみたい。どう？
何か、小さな音がした。響いた、と言った方がいい。心の中に小さな音が響く。それは歯車のきしむ鋭い金属音だったような気もするし、ヒナ鳥がエサをねだる甘えた声だったかも知れない。あるいは…そう、荒れ狂う暴風が古い木の扉を打ち壊そうと何度も何度も叩く。その扉に据え付けられてある錆びた蝶つがいの断末魔の音だったか…。
『…うがあ、ミライ！ いきなり…うああ！ 早く、何とか…！』
目を開けると目の前には…揺れる空？ 青い…いや、これは…！
ここは水の中。口から鼻から遠慮も何もない冷たい水がどんどん入って来る。
『沈む沈む！ 早く渡るんだ！ でないと…！』
急いで目をつぶって、ええと、ええと…
提案。日のあるところへ…どう？
『暑い！ 今度は暑いよ！ もうちっと…ああ、焼ける…！』
とりあえず…提案。どっか別の場所にして！ お願い！
