…母さん…。
何だろう、なんでこんなに他人事みたいなんだろう…。
「それがしっそうなんとかってこと？」
「ああ。裁判所に請求することになる。…七年。いなくなってから七年経つと請求できる」
「そうするとどうなるんだ？」
「法律上は死んだ、ということになる」
死んだ、ということになる。
本当に死んだ、というわけではない、という意味だろうか…とか未来は考え始めていた。そして…なんでこんな風に考えてるんだろう？ とも思う。自分の母親のこと…「キョウコ」という名前にはもちろん聞き覚えがあって、それが自分を生んだ人の名前だ、ということも理解している。
ただ。なぜだろう。…目の前で交わされる言葉に現実味がなさすぎる。テレビのドラマを見ているような気になってくる。未来の前には見えないテレビがあって、その中に羽佐人も先守も明夫もいて…でも自分だけそこにはいない。
「父さんはそれでいいのかよ？」
羽佐人の方を見ていない先守。
「ああ」
「そうか」
「…ああ」
「…父さんがいいなら、俺は何も言わない。話は終わりか？ 俺、もう寝る」
ソファから勢いよく立ち上がるその時にテーブルに膝をぶつけたように見えた。テーブルに乗っていたテレビのリモコンが落ちるくらい。でも痛がる様子もない。
羽佐人はうつむいたままだ。
居間のドアがいつもより大きな音で閉まる。やはり大きめの足音が遠ざかるのがわかる。…明夫は羽佐人と未来の顔をしばらく見比べていたが、そのうちに「うん」と一回うなずいてから立ち上がる。
「じゃ、そういうことでオレも。…おやすみ」
そしてそっと居間のドアを閉めるのだった。
…コーヒーでいいかな。
羽佐人の味の好みは知っている。いつもようにペーパーフィルターをドリッパー（谷の底に小さな穴のある、取っ手のついたプラスチック製。家族用の大きいのと個人用の小さいのがあってこちらはその小さい方）にセットして粉はやや多めに濃い一杯を抽出する。砂糖やクリームはいらない。いつもブラックで飲むのが羽佐人である。
フィルターで淹れるなら少し薄くなるがもう一杯できる。今度は自分用に砂糖を用意しておく。
「ああ。ありがとう」
しかし。出されたコーヒーに手を付ける様子はない。
両手でカップを抱えて、しばし息を吹く。熱いのはちょっと苦手なのだ。
「怒らせちゃった…かな」
カップの取っ手を撫でるだけ。
「うん。たぶん」
「そうか。…やっぱりダメだね、私は」
「いきなりだったから」
「未来は…どうなんだい？」
…わたしは…。
「なんか…実感ないかな」
二人は食卓を間にはさんで腰かけている。カップを抱える未来は目の前の羽佐人…やはりカップに手を付けていない…が、ぷ、と吹きだす様子を見た。
笑っているのでは、ない。
いつの間にか左肘をついて、てのひらで下から口を覆うような格好になっていた羽佐人。吹きだしたように見えたのは覆った口から息が吹き出たから。こらえにこらえていた何かが体の奥から口を突いて吹き出してきたから。目が真っ赤で、体も小刻みに震えている。
「そう…そうなんだ」
こんな羽佐人を見るのは初めてだった。いつも落ち着いて冷静な父。それが。
「じっかん…ないんだ。覚えている…はずなのに。もっといつもきちんとおぼえている…はずなのに、忘れているんだ、ふとした…ときに」
羽佐人は泣いていた。声を押し殺すように。
「おもい出せなくなるんだ…」
「僕の…きょうこさんなんだ。あの今日子さんなんだ。わすれる…はずなんかない。いきなり消えてしまったのに、何も知らせてくれなかったのに…忘れるはずなんかないんだ。あのじかんを、場所も、ぜんぶ…二人のものだったんだ。それを…忘れるなんて…ありえない、あっちゃいけないんだ、なのに、なのに…なんで、なんで…！」
