「はい。じゃあ…吸って…吐いて…」
「すうう…はああ…」
「はい。その調子ー…吸って…吐いて…」
このみさんの指導？である。くすしさんはちょっち用事あるから、じゃあねえ、とのことで、ここにはいない。
「はい。また…吸って…吐いて…」
言われた通りに何度も何度も深呼吸を繰り返している。
初めてではない事務所。まだ二回目だけど。雑然、と色々なファイルが押し込んで？ある古ぼけた本棚にややくたびれたソファが一組。事務机も年期の入った深く錆びた灰色。天井の細長い、棒のような蛍光灯（二本が一組）が…時々、ちかちかと瞬いたりもする。そのたびに一瞬だけ目を奪われるような気にもなる。
慣れてはいない場所。でも、どこか、何かで…見たことあるような気もする。そんな場所。
「吸って…吐いて。はい、また吸って…吐いて」
両腕を軽く広げ、肩の力を抜くように言われた。目はやや下に向けて、どこかをじっと見つめるのではなく視線を置いておくだけ、そんな程度のように、と。
「吐いて…吸って」
しかし視線はなるべく上に向けておけ、と。眼球そのものは下に向けておいて視線は上に向けろ、と言う。なんだかよく分からないが、なんとなく…『下を向いた気になって上も見えてるような気にしてみる』とかそんな風に思ってやってみたけど…特に何も言われなかった。
と言うか…目を閉じたりテキトーな方向に視線を動かしてみたりもしてみたのだけれど。それでもなーんにも言われなかった。
…なんなん…だろ…これ…？
ホントに…？？？
ここへ二度目に来る前に、偶然にゲンゾーじいさんに会ってしまった。
前の日の夕方。夕焼けも何もない、ただの日暮れ。例のスーパーである。いつものように夕食の買い物に…と来てみたら駐車場にじいさんがいたのであった。まるでそれは…孫の阿多根先輩と同じように。一本の街灯によりかかるように、ちょっと息を抜いたような…リラックスと言えば格好はいいけどなんかそんなのとは違う、どこか一点だけ緊張しているけど実際には肩の力も何もかも抜けている、そんなようにも見える姿勢だった。
夜空になる前の藍色と青色と黒色の混じった、桃色の雲がぷわんと浮かんでいる空を…ほけっと見上げていた。
「おや…珍しいのう」
それでも思わず近づいた未来に…ほわっと笑いかけてくれた。珍しいも何も。未来にとってはいつも買い物に来る場所である。
「こんばんは」
「はい。こんばんは。…ああ…ここなら…」
懐をがそごそと探って、タバコの箱を取り出す。ぐるぐると辺りを見回して…
「…よし」
何に警戒しているかは未来には分からない。別にここは禁煙ではないはずなのだけれど。屋外だし。近くに灰皿もあって、そこで吸っている大人たちをよく見かける。吸いたいとは特に思わない。何より未成年だし。臭いし何が良いのかさっぱり分からないし。だけど。
この間、店でちょっとだけ見た、でもあの時が初めてだった小さくて四角い銀色のライター。使い古されてその手に馴染んだ銀錆色の…ライター。
フタを開ける時に、かしゅん、と軽い音を立てる。何の音だろうか、他ではまず聞いたことがない音。金属の擦れ合う音には違いないのだけれど、そこまで重くはない音。軽く、ほんとにかるーく…かすかに擦れ合うにしてはしかし確実な音を立てて鋭い二等辺三角形の炎を起こす。
くわえたタバコにその火を近づけていく。右手のライターと風よけだろうか左手を軽く立てて、添える。夕闇の中のうすぼんやりと橙色が年輪のようにしわの寄った顔を染め上げる。…また軽妙な音と立ててライターを仕舞い…大きく息を吸って…名残り惜しそうに吐く。
「はああーーーーー…」
一瞬、ゲンゾーじいさんの両の鼻の穴に白色の煙が吸い込まれた、ほんの一瞬だけど、なんだかそんな気がしてしまった。いや…吐いた煙をもう一回吸い込む、なんてそんな吸い方があるとは思えない。ただの見間違いだろう…と思うのだけれど…口から湧き出た煙の一部は確かに鼻の中へ吸い込まれていった、そんな風に見えた。
ゲンゾーじいさんはポケットから携帯用の灰皿を取り出す。それは未来には頼りなげなビニールの小銭入れみたいにしか見えない。だけど、それへ、ぽん、ぽん、と灰を落としていく。
「ふう…」
そして、今度はそれへ吸い殻を押し当てて火を消す。タバコの吸い殻である。軽い音しかしなかったはずなのに、未来には鉄の棒をへし折るような重い音が聞こえた、そんな風に思えて仕方がなかった。
そんなゲンゾーじいさんなのだが。
「…あいつには内緒にしておくれな」
と、ちょいと片目をつむって見せる。…えっと…
「阿多根先ぱ…みーちゃんですか？」
「そう。そうじゃ…あやつに見つかるとな、もう、むっちゃくちゃに怒られるんじゃ。なあ、信じられるかのう？ 孫のくせに口もきいてくれなくなるんじゃ。どれだけ話しかけてもぜーんぶ無視、じゃ。怖いのう、怖いのう…あれはまるで死んだばーさんのようでなあ…ああ、イヤなもんじゃ…」
軽く震えて見せたりして。それでも、にいいっ、と笑みを浮かべて見せる。
「さて…ワシのわがままは終わった。今度は嬢ちゃんのわがままを見せてもらおうかのう？」
