「いや…その手は…今少し」
「菊池殿。もう二度目でござるぞ」
「…ううむ」
又平はそれほど将棋が下手というわけではない。ただ、攻めが一本調子なので読まれやすいきらいがあるのだ。相手を引っかけよう、という動きは全く見られない。自陣を守る気もほとんどない。とにかく攻めて攻めまくる。思い切りの良い攻めである。初めて対戦するならいざ知らず、その辺りを読み切ってしまうと意外と簡単に勝ててしまう。
「む。むむむ…」
「またそれがしの勝ちにござるな」
「いや、矢巻殿。もう一勝負、今一度お手合わせ願いたい」
「…それは構わぬのだが…」
ちらりと母屋の方へ目を走らせる。この離れからはそれほど離れていない。菊池家の敷地そのものがそれほど広いわけではないからだ。病床にある道仲の趣味でもあるという庭木がさり気なく目隠しにはなっているが、声を上げて呼べば楽に聞こえるほど。
「菊池殿。どうもお役目のようなのだが…」
果たしてしばらくすると苦虫を噛み潰したような顔の六助が現れた。ここのところいつもこういう顔である。なかなか進まぬ調べに多少なりともいらついているようだ。
「又平。殿のお呼びじゃ。参るぞ」
「は」
短く答えてさっさと席を立つ。すでに負け将棋への未練はない。この辺りはさすがに小姓ではある。軽く一礼すると母屋へと駆けて行ってしまった。まさか今着ている着流しのまま覚兵衛のもとへ行くわけにもいくまい。
「…矢巻殿におかれてはいかがお過ごしかな。かなりな骨休めになっているのではないかな？」
「左様ですな。いささか体がなまってきたように思います」
「ふむ。そなたの真意さえ明確にされればこちらとて悪いようにはせぬのだが」
六助は縁側に向かったまま。源三郎は片付けようと持ち上げていた将棋盤を、ふと、畳に置く。
…いきなりだな。
慎重な彼にしては珍しい。そこまで追い詰められている、ということか。
チチチチ、とセキレイの切羽詰った小さな金切り声が庭を横切る。何かに追われているのか…いや、臆病な鳥だから往来の足音にでも驚いたのだろう。
「真意、でござるか」
将棋盤を置いたまま、くるりと縁側へと振り返る。相変わらず仏頂面の六助。
「左様。すでに周知だとは思うがそなたが立ち合いを望んでいた梅垣道場には今、佐野なにがしという他国者が寝泊りしておる。この者がいる限り、そなたが梅垣兵衛様と立ち合えることはまずないであろう。…どうだ、そろそろ腹を割ってくれぬか」
「腹を割れ、と言われましても。それがしは梅垣様と立ち合い、業を見せて頂くが願い。それ以外にはございませぬが？」
「…しぶといな」
それを聞くと六助は明らかに落胆した様子を見せる。…彼も本来は又平と同様、あまり小細工を弄する方ではないようだ。国家老である覚兵衛からしてそういうことはしない方だから、似た者主従と言えるだろう。
「どうでしょうかね、佐伯様。それがしと酒井半左様を会わせてみる、というのは」
「なんと」
「さいぜん、ここのたか殿にもきつく言われましてな。なぜ佐野なにがしを討ちに行かないのですか、と。たしかに佐野殿が今道場にいてはそれがしの願いもかなわぬが道理。しかし…梅垣様との立ち合いの前に佐野殿と立ち合う、ということならば？ 佐野殿を留め置くは梅垣様にも何か仔細あってのことでしょうが、それがしには関係のないこと。立ち合いに問題はありますまい。その後にでも梅垣様の業を見せて頂ければそれがしはそれでよいのです」
「ううむ…」
「さらに佐野殿が敗れればお役目も滞りなく進むかと思いますが…いかが？」
うむむ、と腕を組んで考え込んでしまう六助。たしかに今のままでは彼が抱いている疑念を晴らすことはおろか調べることさえ難しい。兵衛のあの様子ではらちが明かないからだ。もちろん梅垣道場の高弟たちも佐野瑞元との立ち合いを何度も兵衛に願い出ているが、ことごとく黙殺されている。しかし源三郎ならば話は別だろう。門弟でもない彼が立ち合うと言いだしたとしても兵衛は何も言えまい。さらに覚兵衛の口添えでもあれば無下にもできまい。
その一方で六助は別のことも考えている。
…いっそ立ち合わせてしまえばこやつらの化けの皮もはがれるかも知れん…。
「しからば…何故に酒井殿との面会を？」
「佐野殿のやり方を知るためでござる。敵を知れば危うからずというのは基本でございましょう」
「…うむ、しかし…それがしの一存では決められない。殿のご裁定を仰ぐことになるが、それでも良いのか？」
「無論」
正直なところ、さっさと動いてしまいたいのだ。こんなところでいつまでも将棋ばかり打っているわけにもいかない。
先刻の又平との対話で佐野なにがしに気になるところもある。源三郎にとっては梅垣兵衛も佐野瑞元も見てみたい業を持っている人間に過ぎない。
「承知した。殿にはかってみるとしよう…」
