…三の太刀、だと？
どこぞの剣豪にでも倣おうと言うのか。しかしあの短い木刀では大したこともできまい。…これは面白い。
「やってみるがいい。それがしは全て受けてやろうぞ」
源三郎の変化はおたかにとっては意外なものだった。
…あれが…矢巻様…？
道場の外からのぞき見ている観客たちにはあまり動じた様子もない。が…しばしの間でも共に居た彼女でも見たことのない顔がそこにある。
菊池家に滞在していた時は衣服やなりには無頓着ではあるものの、きちっとした折り目正しい言動しか見せていなかった。
しかし、今、道場にいる源三郎は明らかに違う。構えも先ほどまでのきっちりとした古風なものではない。短い木刀を面倒くさそうに肩に担ぎ、やや腰を丸めて顔だけを突き出すような形。体だけは正面から瑞元に向いてはいるが、品がないと言えばあまりにも品のない構えである。いや、これでは構えとは呼べないのではないのか。ただただ木刀を担いだ無頼の徒ではないのだろうか。
末席に控えていた六助も同じことを感じていた。まるで別人を見ているようにも思えるのだ。
…これが、奴の本当の姿なのか？
菊花は…変わらず妖艶な笑みをたたえたまま、である。
構えの違いは野次馬たちにも場が動いたことを知らせている。が、それでも動きそのものが大きく変わったわけではないので道場の外は変わらずだらけたような、芝居の弁当幕のような状態になってしまっている。先ほどから緊張の抜けた空気が辺りを支配してしまっているのだ。そんな中ではこういった多少の変化では意味はあるまい。
その空気は壁板一枚へだてた道場の中にも流れ込んできている。どこか一息つけるような、やっと安心できるような、ほっとした雰囲気。…六助ともう一人、梅垣兵衛を除いては、である。兵衛は先ほどから厳しい表情で二人の立ち合いを見守っていたが、源三郎が『変わった』瞬間からこの温和な指南役の顔にもいささかの変化が訪れていた。それに気づいた者は…道場の中でもごくわずかだろう。古参の高弟たちは気づいているかも知れない。
かすかに笑みを浮かべている。
何かがおかしくて笑っているわけではないのだ。ようやく出てきたのである。期待していた、何かが。
…ふん。
そんな周囲のざわめきは耳に入って来ない瑞元。源三郎の変化を肌で一番感じ取っているのは、他でもないこの長身の巨漢なのだ。開き直りとも取れる源三郎の態度。が、そこで飲まれてしまっては元も子もない。
青眼につけていた己の太い木刀の切っ先を動かさないように、右手で柄を持ち上げるようにゆっくりと動く。左手はかち上げるような形に。木刀ごと静かに上へと上がっていくような状態だ。そして柄を握った右手はさらに頭のやや上へ、左手は己の顔の右へ。右足と左足を入れ替えつつ体は半身に近くなっていく。切っ先から真っ直ぐ源三郎を捉えていた木刀は、腹を見せその長さを彼に見せ付ける。木刀の切っ先が左斜め上へと向いているのだ。
左腕は自身のあごをかすめるようにほとんど肘が伸びてしまっている。右手は額の前。右から攻められたら対応のしようがないのではないか…と余計な心配までしてしまう。
「…百般瑞元流、流水の構え」
だが、瑞元はそれも織り込み済みなのだろう。そしてそれを見ても動じる気配すらない源三郎。
「参られよ！」
ずい、と歩を進める瑞元。その激しい様子に野次馬や道場の侍たちの視線がようやく集まり始める。
猫背気味だった背を伸ばす源三郎。…瑞元の眉がかすかに動く。
「よし。じゃあ…行くか、瑞元」
木刀を担いだ格好のまま一気に間合いを詰めていく。そんなことは相手は百も承知のこと。間合いの短い木刀を使う以上、自分の足で間を狭めなければならない。道場の床を蹴って間合いを詰めるのは当然のことなのだが…。
野次馬たちから、おお、という声があがる。六助は思わず膝をついて立ち上がってしまう。おたかは…息を呑んだ。
距離をせばめ、瑞元の間合いに入った源三郎は…その木刀を投げつけたのだ。
流水の構えとは恐らく、このように短い木刀を相手にした時に効果を発する構えなのだろう。突きや斬りつけるのではく、横や縦に薙ぎ払いやすい構え。相手が接近してきたら伸ばした左手を「引く」ことで強力な返し技が期待できる。ただし、こんな不安定な構えをあまり長く続けるわけにもいかない。視野が狭くなりすぎるし、こちらからは非常に攻めにくい。
それでも相手が木刀を投げつけてきたら意味はない。そもそもそんなこと瑞元は予想していない。
…ち！
懐へ飛び込んで「やわら」か…と思われたが、さらに間合いを詰めた源三郎は姿勢を低くする。そして彼のわきをすり抜けるように床の上を転がると…はいつくばった低い姿勢のまま壁際の木刀掛けへと手を伸ばす。
…なるほど。そういうことか…。
