自分の家とよく似た手入れの行き届いた庭を横切って、離れへ。実はよくやっているのだろう、慣れた様子で離れの縁側へと駆け上る。
「どうなってしまったのでしょうか…？」
そろり、と離れの中をうかがう。しかしこれといって気になるような物音がするわけでもない。あらら、とかすかに落胆してしまうおたか。半左に会うことはもちろん、源三郎の修練とやらにも興味があった様子なのである。
「もう…終わってしまったのでしょうか…それとも」
と、一歩離れに向けて足を踏み出して、唐紙に手をかける、その瞬間。
野太い気合が辺りに響き渡った。そこらの小雀たちが慌てて飛び去る。庭のツツジの細かい葉まで小刻みに揺れてしまうような気迫。おたかは…ぺたん、とその場に座り込んでしまった。
…な、何が…。
起きているのか。やはりお行儀悪く座り込んでしまったまま、唐紙をそっと開いてみる…。
二人が向き合っているのは分かる。やはり仕合っていたのは違いない。…その場を見ることができなかった軽い後悔のような感情を覚えてしまう。…やっぱりあそこでお菓子なんか頂かなければ良かったんだわ。
入り口の唐紙、つまりおたかに背中を見せているのは源三郎だろう。…構えは瑞元との仕合でも見せた背筋を伸ばした当世風の構え。ここからではその意外に広い背中しか見えない。対して、こちらに顔を見せているのは半左である。その顔は…かすかにゆがんでいるようにも見える。梅垣道場でもついぞ見たことのない表情。ただし、おたかはここのところ道場には顔を出していない。それでも半左がこんな苦しいような、しかし無理にでも笑っているような表情をするとはとても思えないのである。
…まさか。
唐紙のへりを握る手に力がこもる。そっとのぞいていたはずなのだが、やはり気づいたのか半左が、こちらを見て、にこ、と笑ったような気がする。
「…矢巻様？」
目の前でその意外に広い背中が前へと倒れていく。…同時に向かい合っていた半左も仰向けに倒れてしまったのである。
「あ……」
まだ腰の起きないおたかは両手と両膝だけで移動するという、やはりお行儀の悪い格好で離れになだれ込み…そう言った方が正しいのだろう、転がり込むような形だったのだから。しかし…ここでもすぐに、ぺたん、と座り込んでしまう。
「…私は大丈夫だ。それよりも矢巻殿を」
半左の方が傷は浅いらしい。頭を振りながら、すぐに身を起こす。が、そんな半左を見ても、何度も何度もうなずくだけなのである。頭の中が混乱してしまっているのだろう。仕方ないな、と半左は苦笑しながらも痛そうに左腕を押さえたまま、やや足を引きずるように歩いて、唐紙をからりと勢いよく開く。
「誰ぞある、戸板と雨庵先生に連絡を！」
………。
伝助たちが慌てて戸板を持って来たのもすぐのこと。さらに雨庵先生も正に飛ぶように駆け付けてくれたのだが…。
「いやあ…面目ない、雨庵先生…」
いささか血色の良くない顔ではあるが、源三郎は意識を取り戻してしまっていた。すぐに乗せられた戸板も意味はなく、乗せる寸前ほどで目を覚まして半身を起こしてしまっていた。激しく咳き込んだりはしていたものの、誰かの肩を貸りれば向かいの菊池の家くらいになら帰れそうなのである。
それでも雨庵先生は難しい顔で源三郎の腹部を注意深く診ている。
「ふむ。みぞおちに一撃ですな。…血の道と経の道の働きが平常とは異なっているようです」
「はあ」
言われてもよく分からない。が、腹の中へ鉛の塊でも押し込まれたようで、体が重く動かしにくいことは当人が一番よく分かっている。
「先生、あの、その…ご容態は…？」
「何、しばらく寝ていればよくなりましょうぞ。気になさいますな、たか様」
「べ、別にわたしは気になど…」
「はは。ただし、しばらくは横になって頂きますよ。無論のこと修練は禁止。何があるか分かりませんでな」
「それは…いかほどでござるか？」
明らかに落胆している源三郎の前で指を三本立てる雨庵先生。
「三日というところでございましょう。又平殿にはわたくしからご報告差し上げておきますから、たか様もご心配なく」
「だから、わ、わたしは別に心配なぞしておりませんっ！」
形の上では自分の勝利…と言ってもいいのだろうか。半左は、おたかの真っ赤な顔や、やや引きつった笑みを浮かべている源三郎を見ながら、ふと、考えていた。身体上では自分の方が明らかに軽傷である。痛めたのは左腕と左足。痛みはほとんど引いているので明日にはもう何の滞りもなく動けるだろう。今だってこの板の間の離れで、片膝を立てた状態とは言え普通に座ることだってできている。対して源三郎は三日は寝ていなければならないと言うではないか。
…しかし、それは仕合の勝ち負けを決める要因にはならない…。
目を閉じる。拳をぎゅっと握り締める。考えまいとしていたあることが頭に浮かんでは、消える。
…本当は自分の方が負けていたのではないか…。
