「あ…左様にござるか」
「失礼ですがあなた様は？」
「お…それがしは勘定方藤崎権衛門が一子、丈助と申す…」
「まあ。藤崎様ですか？ お久しゅうございます。…お年始以来ですね」
馬鈴娘の菊池の家も小姓組として勘定方宅に年始の挨拶に行ったことがあるのだろう。そしてそこで顔を合わせたことがある、というところか。しかし勘定方宅のお年始と言えば佐井の全ての武士が訪れるか、というほど人が来る。しかもひっきりなしである。顔を合わせたことがあっても面識を得るまでには至らないのだろう。
だから丈助がおたかのことを知らなくても不思議はない。格としては下になる菊池のたかの方は逆に知っていてもおかしくはない。ただ…顔を覚えるほどではなかったようだ。
「藤崎様も湯治でございますか？」
「いえ、それがしは、その…」
言いかけて辺りを見回す。…見沢のこの館にいる、ということは湯治客なのは間違いないだろう。しかし勘定方の一子となればそれ相応の連絡があったはずである。何もなしにふらりと訪れる、というのは考えにくい。しかも丈助一人だけというには特に。しかも久作老人はそういうことは何も言ってなかった。
…ということは。
こういうことにはなかなか敏い娘である。
…渡辺様がお連れになるって…この方かしら…？
だが…なぜこの丈助を連れて来たのか。その辺まではさっぱり分からない。
「いかがでしょう？ わたくしたちはこちらの離れでお茶を楽しんでおります。藤崎様もいかがですか？」
「その…それがしは…。うむ、同道いたしましょうか」
なぜか周囲を気にする様子を見せながら、あっさりと後に続いてしまう。その辺がどうにも不審に思えたのだが相手はあの藤崎の三男坊である。菊池とは格が違うものだから、おたかもあまり深く詮索する気もなく離れに案内してしまう。
丈助がここにいたのは他でもない。単純に道に迷ったのである。
源三郎たちが離れに着いた頃、寛月たちも館に到着していた。源三郎たちのようにゆるりとここへ来たわけではない。まずは丈助が参ってしまった。少しお休み頂いてからご案内いたしましょう、という久作老人の言葉に甘えて玄関の上がりかまちに腰掛け、おていが運んできた冷たい水を満たしたたらいに足を浸していたのである。さらに汲みたての歯にもしみるほどに冷えた井戸水をも馳走になっている。慣れぬ山道を長く歩かされ（実際はあんなに歩かなくても良かったのだ）疲れきった体の奥底にまで染み渡ったことだろう。何よりのご馳走とも言える。
本来ならこういう場でも端座することを要求される。しかし兵衛の「しばらくそこでゆるりとしておるがよい」という言葉もあり…館の周囲に誰もおらず、おだやかでのどかな空気もあり…肩の力の抜けた、実家など周囲の目の厳しい場ではあまり見せない格好になってしまっている。当人は気づいていないのかも知れないが、背中が老人のように丸まってしまっているのだ。
しかしそんなことを気にする様子もない。手のひらを何度か握ったり開いたりしてみる。やや、しびれたようになり力が十分に入りにくい、まるで自分の手のひらではないような印象すら受ける。そしてそれは手のひらに限ったことではなく…膝や脚もあまり言うことを聞いてくれそうもない。
…情けないなあ…。
とは思う。思ってはいてもどうしようもない。実際に力がないのは自分自身なのだから。それでもしばらく休んでいればすぐに回復するだろう。
兄にもらった小太刀ほどの長脇差は玄関に続く板の間にきちんと置いてある。下に袱紗が敷いてあるのは久作老人の心配りからである。見た目からして丈助の差料ではない、と思ったのだろう。そして当の丈助も、たしかに自分にはまだまだ過ぎたものだとよく分かっている。
侍が腰を下ろす時には刀を腰から抜く。これは座る時に邪魔になるからである。無論、置き方にも作法があってぞんざいに放り出したりするのは、はしたないこととされる。普段は刀を持ち慣れていない丈助だが、それくらいの作法は知っている。しかし、こうやって誰かに心配りをしてもらうと、その優しさへの感謝よりも自分への不甲斐なさが先に立ってしまうのは…やはりまだまだ年若いからだろう。
それに手足はまだ完全には元に戻っていないのだ。そんな手を、じっと見つめる。
…やはり、情けないなあ…。
再び、そう思ってしまう。そしてそこから容易に立ち上がれるのも年若い者なのである。
その頃寛月と兵衛は奥の座敷に通されていた。寛月の『悪企み』を成功させるには兵衛をここにとどめておく必要がある。源三郎たちを離れに押し込んだのは言うまでもなくこのためである。寛月にはどうやってこの二人を面白く会わせようか…という腹案がすでに出来上がっている。もう少しで最後の詰めが来るのである。
「どうした、寛月。何か思案ごとかの？」
