そろそろ戻りましょうか、渡辺様もおいでになっているようですし。何より宴の支度も整っております故…と菊花が言ったのはおていが離れに来た時だった。そのことを知らせに来たのだろう、とその場の皆は思ったが…本当はこれは寛月が全ての準備が整った、という合図なのでもある。つまりは源三郎と兵衛を劇的に会わせる用意ができた、ということでもある。
しかし丈助は離れに来たことをやや後悔していた。話し込みすぎてしまったのである。
ここでは主に話をしていたのは菊花と馬鈴娘である。市助は粗忽者だが場をわきまえることを知っている。あまり口をはさむことなくにこにこしながら「へえ、さいでございます」というのが常なのは前に述べた通り。今回は源三郎はあまりしゃべってはいなかったようだ（何か含むところがあったのかどうか、それは分からない）。口を開くことがあってもそれはほんの一つ二つほどになっていた。これではおしゃべりと呼ぶにはほど遠い。
対して丈助は家でもあまりしゃべることはない。身近に女性がいないせいもある（兄が二人いるだけである）。勘定方、という役目のため家の格式も高く、身内と言えども長々としゃべることなどはあまり許されていない。そういった生活が当たり前のように続いていたのである。
菊花は話を引き出す術に長けているし、おたかは元来が様々なことに関わるのが好きな性質である。しゃべり過ぎても不思議はない。が…本当は話してはいけないようなことまで口にしてしまったのではないか、兄に知れたら何か言われるのではないか、そんな後悔の念に取り付かれてしまったのである。
そんな丈助と源三郎が交わした言葉は差料についてだけである。太刀は館へ入る時に礼に則って預けてしまっているが脇差は帯びている。その源三郎の脇差が鉄拵えの太く頑丈な鞘に収まっているのを見て、丈助が一言二言。佐井ではあまり見ない差料なのである。このご時勢には珍しい部類に入るだろう。使う機会の減ってしまった武士の刀は細く瀟洒な造りへと変化している。鞘も例外ではない。源三郎のようにやや剥げて地金までむきだしになった、武骨でいささか不調法にも見える鞘はなかなか拝めるものではない。
無論小柄同様当人には理由があってそうしているのだが、丈助には分からないだろう、と思ったのだろう。
「それがしの好みゆえ」
と答えるにとどめておいた。
一方の丈助の小太刀だが、源三郎はあまり興味を示さなかった。基本、彼は斬れればいいのである。刃物として使えればいい。物には執着しない性質だ、という言い方もできる。
おていが皆を館へと案内していく。夕刻前。まだまだ陽は十分に残っている。昼間ほどに白くはないが黄色がかった光は余すところなく館から庭から全てを照らしている。が、もうじきその光も吸い込まれていくのだろう、夜の深い黒に。
庭には飛び石が設けてある。一つの大きさは一抱えできるほどだろうか。離れからはその飛び石の上を歩くようになっている。飛び石は濡れ縁へと続いているが、縁側はやや高めの位置となっている。そのため一部だけ少々低めに作られてある。そこで履物を脱ぎ、一段だけ上がると濡れ縁へと上がることができる。この高さとなっているのはやや高い位置からこの眺望を楽しませたい、という瀞流公の計らいであることは言うまでもない。
おてい・菊花・源三郎・丈助・おたか・市助の順で歩いて行く。おていが最初に飛び石を渡り切り、縁側へと上がるため、ひょい、と段へ小さく跳ぶ。
………？
菊花と源三郎は一瞬だが何かが違う、そんな風に思った。
「いかがなさいましたか？」
おたかが問う。二人の様子が変わったのに気づいたのかも知れない。
「いや。何でもござらん」
菊花も振り返って笑みを送る。安堵を誘う笑みだが…馬鈴娘はどう思ったのだろう。やはり、にこりと笑みを返して二人の後へと続いていく。
二人が気になったのはおていの跳び方である。普通の村娘、いや術や技を身に着けていない者なら跳ぶ時に必ず肩が上下する。これは跳ぶ、という動きに慣れていない、むしろそういうことをする必要のない者ならば男女問わず誰でもすることである。ある程度の勢いをつけたい、という無意識下の思いが身体を、肩を上へ運び…そして元へ戻るために肩は下がる。
それにつられるように腕も動く。足から腰、そして肩から腕。全ての動きは連なっていく。
しかしおていの身体はほとんど上下しなかった。もしおたかが気づいているのなら、前を行く二人…つまり菊花と源三郎も似たような動きをしていたことに気づいていたかも知れない（ただし菊花はわざと素人っぽく振舞っているためそうは見えない可能性が高い）。そう、これは忍びの動きの一つでもあるのだ。
…てことは…。
菊花は密かに思う。佐伯六助からの間者である。
…あの娘がそれってことかね…？
