人差し指の腹を唇辺りに当てて、ちょっと視線を落として、考え込んでいたアンヘラだったのだが。
「分かりました。それがそちらの条件、ということならこちらも飲みますわ」
本音ではマズルカたちにも協力してもらいたいのではないだろうか。…アテになるのかどうかはまた別の話だが。
「ではこちらも二つ、条件…ではなくお願いがありますの」
「聞きましょう」
「一つ目は私がそちらの管制室にいることをエイブラに知られないようにしたいのです」
そりゃあ、そうだろう…ジルバは素直にそう思った。あのエイブラである。追っ手が来てるとなると何をしでかすか分かったものではない。
「それと…そちらに泊り込み、ということにしたいのですけれど。ほら、寝袋も用意してますのよ」
結構年期の入った寝袋である。さっきの樽のような大きなカバンの中に入っていたのか、こういうことに慣れているのか…って、何か違う。
「えっと、その…」
ぐるりと見回すとボブ氏を視線が合う。なぜかふくよかな満面の笑みだ。
「…いいんですか？」
「我々だって張り込みすることくらいあるんですよ。まあ、そんなに何度も何度もすることはありませんがね。…どうしても迷惑になる、ということならやめさせますが、できれば現場に張り付いていたい彼女の気持ちを理解して頂ければ幸いなんですがね」
そこまで言われるとなあ…ちょっと、考えるジルバ。…アンヘラはアンヘラでやけに嬉しそうなのが気になるところではある。変な私情を持ち込んでもらいたくはないないのだが…。
仕方ないか。あまり変な印象を持たれたくはない。
「分かりました。さっきの条件を守ってくださるのなら、僕の権限でそちらも許可しましょう」
そんなことが惑星上で起きているとは、もちろん何も知らない惑星衛星航路上。マズルカがキャビンへと入ってくる。
「おあよ」
『…うむ、おはよう』
「何よ、ずいぶん静かじゃない」
『う、うむ』
ポルカは機長席の例の筒に収まっている。寝る時は外すことが多いのでマズルカが起きたらここにポルカがいる、というのは当たり前な光景でもあるのだが。文字通り漂い着いたマズルカは身体を宙に預けたまま、腕だけをコンソールに伸ばして新着メールをチェックする。これは『朝』となれば通常の光景でもある。もちろん惑星上からのものもあるのだが、航路上にある他の船からのがあったりすることもあるのだ。最近はさすがにないが、業者の宣伝メールが届くこともあったりする。そりゃ、惑星上のインターネットに接続することは可能なのだが時間がかかる上にレスポンスが悪すぎるからあまり意味はない。そこへ宣伝用のメールなんか来たって使いようがないのではあるが。
「今日は…特に何も来てないか」
彼女の場合、例えば惑星上の友人からとか。あるいはカルスかホープフル辺りから何かないかなー、とかそんな期待は常に持っているようである。もっとも、今回は何もなかったらしい。ジルバももちろんメールを寄越すことがあるが、時間が合わないのか彼の趣味なのか『朝』に来ることはまずなかったりする。時間的には『夜』や『夕方』に、ひょい、と入っていたりする。
サブのモニタに映し出していたメールチェック用画面（未開封なら閉じた封筒、開封済みなら開いた封筒のアイコンが並ぶ…今回は何もない、ただの表計算ソフトのような表示）を閉じて…さて、じゃあ、今度は今日の作業スケジュールでも呼び出そうかい、とコンソールへ指を伸ばしたその時…なお、身体は浮くを通り越してすでにエビ反りのような形で、ほとんど首が真上を向くような状態になってしまっている…隣の操縦士席にエイブラがちょこん、と座っているのに気付いたのだった。
「あれ？ なんで起きてんの？」
上下左右にそれほど意味のない無重量空間では椅子に座る、ということにもそれほど意味をなさない。それなのに無理に身体を押し込むかのように席に座って、じっと目の前のモニタをのぞきこんでいる。マズルカの視線に気付いて、にっこり。
「おはようございます、お姐さま。さあ、今日も一日頑張りましょうね」
…思わずコンソールを手で突いてしまう。あまり強くなかった（無意識にセーブしたのだろう）ので惑星上でならキャビンの天井、無重量空間でなら配線だらけの壁に激突することは避けられたようだ。何をしたかった、かと言うと。その場から思わず逃げ出そうとしていたことになるだろう。
「だ、だれ…？ あんた…？」
「まあ。いやですよ…お姐さま。私ですわ、エイブラですわ」
屈託のない童女のような笑みと嫌味も悪気も全くないそのしゃべり。昨日までの毒吐きまくりのしぶとさ全開のエイブラとは明らかに違う。目の前にいるのは姿形こそは変わっていないが、中身は丸ごと全然別のモノと入れ替わってしまったみたいなエイブラなのである。
