「…そういうことでしたか」
「そういうことです」
『はい。そういうことなんです』
ちょいとした重い沈黙が支配する…事務所。先ほど届いたデリバリーのピザの箱は、まだ開いていない。
ふう、とため息を一つ吐くアンヘラ。さすがのジルバも椅子の上で小さくなっている。サルサの存在を示す深い翡翠色のアイコンも…どこか弱々しく見える。いわゆる「やっちまったな」状態である。
「まったくもう…」
その表情は、弟のいたずらを見つけた姉のようにも見える。実際、どっちが年上か、なんてのは分からないのだが。
「…先に言って頂ければ協力できましたのに」
「…え」
「ネットワーク上のログを勝手に取得、というのはケースによりますけどこの程度なら犯罪にはなりませんよ。法制上の解釈、と言うか見方によっては相手方の所有物に手をつけた…ということにはなりますけど、ネットワーク上に放置されてたわけですからそこまで厳密な解釈はできませんね」
一応そっち関係の役付きでもあるのだ。軽く腕を組んだ姿勢で、にこ、と笑って見せる。
「本来ならカギ付きファイルか何かで一般には容易に取得できないようにするべきで…そうでない今回の場合はそこまで悪質ではない、と判断できますよ。そもそもログそのものの内容も不確定なんでしょう？ 特定のログを狙ってシステムに侵入した、というのなら明らかな犯罪ですけどね」
実際バクチ要素の非常に強い方法でもある。もっと犯罪スレスレを狙える方法だって探せばどこかにありそうである。
「しかし…すごいですね。こんな手があったとは…初めて知りました。この業界では当たり前の方法なんですか？」
「いや…いえ、まあ、知ってる人は知ってる、とか…」
『ネットワーク内を行き来する、と言うか…あちこちで色々探してみるとこういうのが出てくるものなんですけど…』
普通に検索かけるだけではない。関連するキーワードからキーワードまで文字通り行き来していくと思いもしない道具や発想にぶち当たることもよくある。肉体を持たない、基板のみの存在である彼女はこうやって様々な技術や方式を手に入れているのだろう。もちろんそれらの情報はジルバに集められて、今回のような「お役立ちツール」となるのである。
「では僕らはこれからどうしたら…？」
「んー…そうですねえ…」
人差し指を下唇に当てて、ちょっと考え込む。…やがて何か思い出したのかいいことでも思いついたのか。うふ、と妙な笑みを浮かべて携帯電話を取り出す。
「アンヘラです。…えっとですね、管理者権限の一時譲渡をお願いしたいのですが。はい、はい、そうです。ええ、10分…いや5分で結構です。もちろんです、はい」
『か、管理者権限…』
何かイヤな思い出でもあるのか、サルサの声が低い。
「…なんだか大がかりになってきたな…管理者権限ってまさかアレか」
『恐らくは。特定の名称を出さずにただ管理者、と言うからにはアレしかないでしょう』
アンヘラはまだ話している。相手は同僚かそれともそれ関係の部署の人間か。ある程度懇意にしているのは話し方でも分かる。友人…とまではいかなくても職務上深い付き合いのある人物なのだろうか。目上の人間のようでもある。
「はい、ではそういうことで…お願いします。こちらのアドレスはそっちで把握できてますよね？」
携帯電話を右手に持ち替えて左腕を目の前に持ってくる。時計を見ているのだ。
「現在時刻から5分でお願いします。時計合わせ…3、2、1…開始します、ボス」
どうも相手は直属の上司のあの太っちょボブ氏だったようだ。
「時間がありません。これから5分だけ管理者権限を譲渡してもらいました」
「管理者って、あの…」
「はい。全ネットワークの管理者権限です。情報制限法に定められているレベル5の国家最高機密を除いた、基本的に全てのネットワーク情報を把握できます。…急いで、5分なんてあっという間なんですから」
…とは言うものの。ネットワークへアクセスするための手順としてまず譲渡を受けた人物のIDと登録パスワードが必要になる。つまり、この場合はアンヘラが公的に（警察の人間として）登録しているIDとパスワードを入力しないといけない。ジルバやサルサではログインすらできないのだ。
「えっと…」
『残り4分12秒です』
「えっとね、うんとね」
『…2分38秒』
「…どうしたんですか？」
「私のパスワード…どんなのでしたっけ？」
