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Materials: 篝火幻灯, 信天庵
「こんなとこまで来ちゃったねえ…」
ファイーナはのぼりにつかまったまま、目を閉じている。
…こんなところで満足に眠れるのかしら。そんなことを考えて、ドリスはくすりと笑った。
「あんたは気楽よねえ」
ドリスが歩いているのは細い獣道。険しい山肌を這うようにまだまだ頂上へと向かっている。これでも昼間なら隊商が列をなして通る道だから…獣道とは言えないだろう。でも馬は通れそうもない。道幅も人が一人通れるくらいだし、整地とは程遠い状態だから歩きにくいことこの上ない。
昨日今日旅に出た若者ならネを上げるんじゃないか…。
ふと、ドリスはそんなことを思った。
いくら迂回したら三日は余分にかかる近道とは言っても、つるつるになった木の根や濡れた葉っぱで足元から意識を離せない。常に足と目の前に注意を払いながら歩くことになる。慣れないと気疲れですぐにへばってしまうだろう。
しかも今は夜中。周りに人の姿はない。普通の旅人なら危険を避けるために野宿するか、早々に宿屋のあったかいベッドに潜り込むことを考えるだろう。
彼女の場合は…ただ、急ぎの仕事があるだけ。まだ頂上には遠いが、明日の朝までにこの山を越えないと依頼をこなせない。それだけのことだ。
…何かに気づいたのだろうか。ドリスは思いついたように脇道へそれた。
ゆるやかな斜面を少しずつのぼっていく。下草をかきわけて…地面に指を突き立てて。途中、のぼりが木にひっかかりそうになって…すんでのところでドリスが気づいてかわした。
ファイーナはまだ眠ったまま…。
「ふう…」
どこからか水の音が聞こえるな、とドリスは思ったらしい。
まだまだ時間に余裕はあるし。
少し、休んで行こうかね…。
ドリスが思った通り…いや、その想像を越えて目の前には谷に抱かれるように湖が広がっていた。水の音はかすかな風で岸に打ち寄せる、これもわずかな波の音だったようだ。彼女は池か何かあるのかな、と思っていたようだったが。
「…向こう岸が見えない…なんかすごいわね」
今度は急な斜面を下って岸へと降り立つ。背負子をそっと下ろす。のぼりにつかまっているファイーナは、背負子が動くままに上下するが…起きる様子もない。目を閉じたままされるがままになっている。
細かい砂と緩やかな波。いきなりこんな場所に出たら間違って海へ出たのでは？ と思ってしまうかも知れない。
手頃な石を見つけてそこに座る。冷たくて気持ちいい…まるで誰かが座ってくれるのをずっと待っていたような石だ。
「あ、月…」
見上げてみれば満月にしては少しいびつな月。しかしその光は万物を照らして止まない。夜に黒くにじむ水面はそれだけで生き物のようにも見える。今までは重なり合った木々が邪魔して見えなかった。優しい明りは感じていたのだが。
足を投げ出して大きなのびを一つ。さすがの彼女でもきつかったようだ。
アー、としゃがれたファイーナの声が一つ。
「あ、起こしちゃった？ ごめんね」
そんなドリスの声を無視するように毛づくろいなんかしている。でも昼間のようなキレがない。もそもそと翼のあたりに嘴を近づけているだけ、のようにも見える。いかにも面倒くさそうな仕草だ。
「いいから寝てなさいって。しばらくしたらあたしも行くからさ」
その言葉が聞こえたのかどうか…ファイーナはまた眠りに入ってしまったようだ。のぼりのてっぺんで。
黒くうねる水。音もないように打ち寄せるかすかな波。
そんな世界に一人ぼっちのドリス。膝を抱えるように顔に寄せてみて…すぐに上を向く。
星空は月明かりに埋もれてしまっている。夜でも人が起きている都では星が見えにくくなる…。生まれてからずっと辺境を渡り歩いていた旅人が、酒場でそう愚痴って泣いていた。その酒に酔った泣き顔を思い出してしまう。
…それはそれで味があるんだけど。
そう思っても口には出さず、適当にあいづちを打ちながら呑んでいたっけ。
…そう言えば。
背負子に酒があるのを思い出した。薬酒ではない。ここに来る前の町、そこの酒場で亭主にもらった酒だ。「気に入ったかい！ ここの酒は一番だからよ、眠れなくなったら飲んでくんな」と豪快に笑って、ビンにうつしてくれたのだった。
…少し、飲んじゃおっかなー…。
ファイーナを起こさないように、そっと、背負子を探る。
小さなビンを探し出して…またあの石の上に座る。
満月に少し足りない月は、青い光で地上を照らしつづけている…。
…へへ。
元来が嫌いではないのだが、こうやって野宿の時に呑むことは少ない。明日には宿のある町に着けるとか、予定がきっちり決まっていない、今回のような晩に呑むことはあまりない。
ビンから直に喉へ。
つまみはもうすぐ満月になりそうな淡い光と穏やかな水の音。
頬を撫でる風も静かだ。
こんな晩もいいかな……。
「さ、行こうか。ファイーナ」
おいでおいでをしている水達に別れを告げて、ドリスは背負子を肩に担いだ。
ファイーナが眠そうに羽根をばたつかせる。
明日の朝にはこの山を越えないといけない…。