TheRootSeller 外伝 1 「二人の未熟者」　[16]

「フラニチカ！」
　その声はどこか遠くから…いや、近くから聞こえたような気がした。月明かり満ちるノニイ平原に響き渡る男の声。
　ぴくり、と反応するフラニチカ。あふれていた涙が少しだけ弱まった。
　…誰？
　顔を上げてもケウェリアシの葉が邪魔して何も見えない。

「フラニチカ！　…どこだ！　返事しろ！」
　…ハウズさん…まさか…？
　しかし必死に大声を張り上げるその声は…間違いない。ハウズだ。
　そう思った瞬間、彼女は…かあっと体が熱くなるのを感じた。その場から逃げようとアシの茂みを中を這うように移動していた。
　別に逃げる必要は全然ないのに。彼女の体は勝手に反応していた。
　ただ…。
　今はハウズの顔を見たくない…見れない…その想いに体が反応してしまったかのようだった…。

「…そこか？　今行くから待ってろ！」
　ハウズはケウェリアシより背が高いし、雲が去った月明かりはこうこうと平原を照らしている。しかも風もない。彼が平原に入っても、何かが動けばすぐにアシの動きで分かってしまう。
　もちろん野生動物も多数いるこの平原。しかしここまで彼が騒いでしまっては姿を隠してしまうだろう。いかに凶暴な肉食獣でも人の気配…しかもこれほど膨れ上がるような殺気を察知すれば怖れをなして逃げてしまう。
　本来なら爪に生体毒を蓄積させたツメナガイタチや、こういう平原を狩りの場としているコビトトラなどがいつもうろつき回っている。いずれも夜行性ではある。他にも群れをなすアナオオカミなんかもいるが…ハウズが喉から血が出そうなほど怒鳴って、アシを思い切り振り払いながら探していては出る幕もない。第一、獲物になりそうなアミドネズミとかメンウサギなどの小動物もこれでは姿を消してしまう。彼らにとっては嵐のようなものだろう。過ぎ去るのをじっと待つしかない。

　ハウズはそんな野生動物がいるとは知らず…いや、知ってはいるのだろうけど気の端にも留めていない。彼が捜し求めているのはただ一つ、だ。
　嫌になるほど真面目で、壊れてしまいそうなほど華奢で小さくて…でも芯は強そうな。それでもまともにその深い瞳を見ることもできない、でも気になって…どうにも気になって仕方がない…あの、ルートセラーの少女。
　初めて彼女と会った、あの大通りで見た時の感触を思い出していた。大通りの人波に入り込めなかった彼女を。守ってやりたくて仕方なかった彼女を。

「フラニチカ！」
　幾重にも重なっているケウェリアシをかきわけた先に彼女はうずくまっていた。
「……」
「バカ！　なんで俺から逃げるんだ！」
　フラニチカは顔を隠すように地面につっぷしている。
「だって…」
　昨日の雨で泥に汚れてしまった顔を上げる。濡れてぐしゃぐしゃになっているのはそのせいだけではない。疲れ切って息も荒い。
「だってじゃない！」
　ハウズの息も荒い。その地面についたままの白い手を奪う。力任せに振り向かせる。

　フラニチカの目にはまだ、涙がたまっていた。振り向いた勢いで頬に新たな涙がこぼれ落ちる。
「だって…だって…私…」
「こんな夜更けに一人で、なんて…」
「それは、私が、ルートセラー、だから…」
「違う！　俺が言いたいのはそんなことじゃない！」
　困惑しているようなフラニチカの顔。でも潤んだその目を、じっと見つめている目には…怒りでも安堵でもない。たった一つの感情が浮かんでいる。
　……。

　彼の目の奥に灯っているたった一つの想いを彼女は感じていた。
　彼女の瞳に宿っている一つの想いを彼は感じていた。

　フラニチカの肩を両腕でしっかりと握り締めるハウズ。そんなハウズの腕を力なく握り返すフラニチカ。
　二人を見ているのは月だけ。邪魔をしないように隠れようとしても…雲一つない夜空。しかも星たちは遠慮なくその光を地面に垂れ流している。
　どちらからともなく深呼吸を一つ。わずかな時間差で重なる二つの呼吸。
「あのな…俺はな…」
「…うん…」

　二人の視線が重なる…。
　フラニチカは軽く涙を拭って…次の一言を待った。息が詰まったまま、止まってしまったような彼の一言を。
　ハウズは…大きく息を吸い込んで…。
「俺は……！！」