TheRootSeller 外伝 2 「我が思い、翼となりて」　[2-6]

　実はあの家にルートセラーが立ち寄ったことがあったらしい。もしかしたら何度かそういうことがあったのかも知れない。ウプソール山に登る必要のない旅人もいる。そういった連中にとってはちょうどいい場所ではある。その中にはルートセラーだっていたかも…しかし、ドリスはあの人のことしか覚えていない。

　ボロのような「薬草アリマス」と書いてある薄汚れたのぼりを立て、山のような荷物を背負子に載せて担いでいた。若い男だったと思うが…もしかしたら中年の男性だったかも知れない。髭面だったような、青々と剃っていたような。丸顔だったのか細おもてだったのか。その辺の記憶は今でも曖昧である。でも、はっきりと覚えていることがある。
　本を読んでいたこと。その時の瞳が澄んだ水にようにきれいだったこと。

「…すまない。軒先でもいいから貸してもらえないだろうか…？　怪しい者ではない。俺はルートセラーだ」
　ウプソール山を駆け下りてくる風は体の奥底まで冷気を運ぶ。おそらく冬だったのだろう。
　主人は快く彼を迎え入れた。もちろん本当に軒下だけを貸したわけではない。部屋数はある家だからその一部屋を無料で貸したのだ。食事もたっぷり用意する。こういう遠来の旅人が何を一番欲しがっているか…主人はよく知っていた。
　その食事が整うまでの、ほんの、ひととき。そのルートセラーは背もたれを小脇に抱えるように…椅子から横を向くように腰掛け、暖炉の方へ軽く身を乗り出して、膝頭に腕を預ける格好で熱心に本を読んでいた。しかし…
「この本に興味があるのか？」
　じっと見上げていた幼いドリスに気づいて、そっと微笑む。
「はは。珍しい子だ。まだまだ捨てたもんじゃないんだな、この世の中は」
　と言ってごつごつした手で頭を乱暴に撫でてくれた。不思議とぽう、とした温もりを感じたことも記憶に残っている。しかしなんでこの世を「捨てたものじゃない」と言ったのか…そこまでは分からない。
「この子はいつもこうなのか…？　そうか…おじさんはまだ全部読んでないんだ。一緒に読むか？」
　少しはにかみながら、ニコ、と笑みを浮かべてうなずいて見せると、読みやすいように腕の位置を下げてくれた。彼のたくましい腕に両手をかけて背伸びをしながら本をのぞきこむ。
　白い紙の上を黒く印刷された活字が躍っている。新雪を走り回る元気な黒い子犬のようだ。
　古い本ではなかった。あの独特のほこりっぽい匂いはしなかった。代わりにかすかに、つん、と鼻をつく匂いがした。おそらくインクの匂いがまだ残っていたのだろう。
　どんな本だったか、なんて題名だったか…それすらも覚えていない。でも、その時の様々な感触は忘れられなかった。一字ももらすまい、と皿のように目を開いて追った文字。丁寧に教えてもらった、数々の分からない単語。ただ教えてもらっただけではない。自身が十二分に理解している事柄を、結んだヒモを少しずつ解いていくように納得させてくれた。何を聞いても答えられないことはなかった。まあ、まだまだ幼い少女の疑問だ、突飛なものはあってもそれほど専門的な難しいものではなかったのだろうか。
　よく分からないまでも「旅…」「知ること…」「探す…」といった言葉がいくつも彼の口から出てくる。ルートセラーとはどういう人たちか。それを知ったのはこの時が初めてだった。
　翌朝。触れると割れてしまいそうなほど冷たい空気の中を彼は去っていった。雪がほの白く光っていた。規則正しく足跡を残したまま振り返りもしなかった。
　その後彼に会うことはない。今までも。

　寺院に戻ってからは白い目で見られることが多かった。…神聖なる寺院に女の子なんて…！　ということである。だからドリスはあまり表に出なかった。そのかわり、寺院の書庫にこもるようになった。
「あたし、ここの本、全部読みたいちや！」
　寺院の誰もが思った。
　…もしここがどこか大きな町で、本をたくさん持っている商人だとか領主の家だったらどんなにこの子は幸福だっただろう。でもここは女人禁制の寺院なんだ…。
　一番強く、そう思ったのは和尚だったのかも知れない。各地を流れることを旨としている宗派の和尚が、ドリスに付きっきりで物事を教えていったのだから。その間、リンヌプ村はおろか寺院の奥からほとんど外に出ることはなかったと言ってもいい。まだ諸事を理解できていなかったドリスは…和尚が教えてくれたことを片っ端から呑みこんでいった。
　そして二年の後。ドリスはラチャクに出た。さすがに限界だったのだ。村のこと、宗派のこと、祭のこと。色んなことに対して…和尚も、ドリスも…限界だったのだ。
「ルートセラーか。…これまで教えてやッたことが役に立つわな。オウ、なんでもやってみろや、できるだけ助けてやッからよ」
　ドリスが願望を述べた時、表面上は相変わらずだったが…内心はどうだったのだろう。

「…ドリスさん…？」
　ふと…思い出から覚めてみると…不思議そうなドルトンの無精ひげだらけの顔。
　空は全体が薄い青に染まっている。キン、と音でも鳴りそうに澄んでいる。…あの時、あのルートセラーが去って行った時のような…初めてラチャクに向けて旅立った時のような…冷たい青空だ。
　…ああ、あん時も寒かったっけ…。
「どうかしましたか？」
「いえ、いえ…なんでもない、うん、なんでもないの。ごめんなさい」
　…あー…久しぶりだからかなあ…。
　くるっとドルトンに背を向けて、てのひらで乱暴に目をこする。

　