TheRootSeller 外伝 2 「我が思い、翼となりて」　[3-9]

　すうっとドリスが流れるように顔を上げて、ジャンの瞳をのぞきこむ。いや、この場合見上げる、と言った方が正確だろう。
「なんで？　別にあたしはあいつがどうなろうと、うちひしがれて失意のどん底に叩き落されようが、しばらく泣いて暮らすようになったって知ったこっちゃないんだけどな」
「またまた。そんなこと言っちゃって。…分かってるんだってば。弱みとか握られてるわけじゃないようだけど、姉さまのことが気になって気になって仕方がないってね。そうとしか見えないよ」
「そお？」
「でないと、そもそもこんな夜更けにこんなさびれた場所まで来るわけないよ。ちょっと頼まれたくらいでさ」
「…どうもどっかで勘違いしてるようね。あたしはそりゃ、ルートセイバーは好きじゃないけど心底憎いわけじゃない。ハウファはうっとうしくてどうしようもない奴だけど…だからってズタボロになっちゃえばいい、とかそこまでは思わない」
　ジャンが小さく息を呑む。少し、目を見開く。
「誰かの思いなんてそう簡単に割り切れるもんじゃないのよ。嫌いなら全部嫌い、とか」
「……」
「だからこの後あいつがどうなろうとそれはあいつの勝手。ただあたしはここでできるだけのことはする。…本当に寝起き悪くなりそうだからね、何かできるってのにここで放っぽり出したら」
　なぜか、ふと、サウザムランドのあの半裸の男と…リンヌプ村で会ったドルトンの顔が浮かんできた。同時に激しい雨音とタバコの匂いも。

　止めちゃったらそこで終わり、ってか。

「まあ…あんたの言う通り、不器用なのは不器用なのかもね。あいつが戻って来る前に逃げちゃってもさ、それはそれでいいわけだし。銅貨一枚儲からないわけだし」
　くすくすと笑い出しそうな、にやにやが止まらないような変な表情のドリス。なんだか本当に笑いだしたくて仕方がないようだ。
　しかしジャンはそんなドリスをじっと睨むように見下ろしたまま、ぴくとも動かない。今度はこちらに表情がない。
「でも…ここで逃げたら寝起きが悪くなる…から？」
「そう。さっきから何度も言ってるじゃない。まあ…立ち止まるよりも、とりあえず前に、ってことかな」
「…それだけ…なんだ」
　かきん、と音でも立てたようにその顔に困惑と…なんだろう、安堵のような感情だけが戻ってくる。それでもまだまだ表情は硬い。
「そう、それだけよ。ホントにそれだけ。さ、形だけでもなんかやっとこうかね。なんにもしないよりゃマシだから」
　力を入れやすいように姿勢を変える。さっきからずっとこねていた泥を両手できつく握りながら、何度も上下に手を振る。指の間から水が桶にしたたり落ちていく。
「さて…あとはあいつが戻ってきて、何か器材でもあればもっとそれっぽくなるし…」

　その言葉を待つ前に逃げるようにベッドに体を戻してしまう。思い切り毛布をつかんで、顔まで覆ってしまう。
「…いらない」
「あんたねえ…」
　膝ついた格好のまま、ふう、とため息をつくドリス。手の中の泥の塊を小さなダンゴ状に握り締めておいて、桶のそばにそっと置く。何か手を拭くものはないか…と見回してもそれらしいものはない。仕方がないので自分の服のすそで、ちょちょっと拭いながら立ち上がる。
　…軽く腰を伸ばして、一息。
「それでも別にいいんだけどさ。でも、何かそれっぽいことでもしておかないとあいつが疑うかもよ？　しばらくは病人のふりでも何でもしてなさいよ。こっちもじっくり腰据えて交渉したげるから。金貨一千枚ってのは…やっぱり無理だけどね」
「……」
「少しでもあたしに慣れてるふりでもしといた方がいいと思うわよ。本物の医者でも連れて来られたら一発で仮病だってばれるし。そうなったらやばいんじゃないの？」
「…やばくないよ」
「なんで」
「明日、僕はここからいなくなるからさ」

　