TheRootSeller 外伝 3 「ボクの薬協支部設立奮闘記」　[4-42]

　あ。もしかして…あのことかな？　でもあれは…。

　大したことじゃないんだ。でも人間、思い出したくないことの一つや二つ、あるよね？　うん、そうなんだ、別に本当に大したことじゃないんだ…悪いことをしたわけでも…いや悪いことになるのかな、あれは。でも人の道を踏み外したとかそういうのでもなんでもないし。ただなあ…ちょっと、いや大分恥ずかしいと言うか何と言うか。できれば記憶の奥底へとしまっておいて一生そのまま、ってのがボクとしては一番いいわけなんだけど…。
「なんだこれ？　なんかの暗号かよ？」
　って、一番見つけて欲しくない人に見つかったような…。
「『お手々すりむいたマルティン君』か…おやおや、これは穏やかじゃないね。ナスターシャ君と昔何かあったとか？」
「そうなんですよ。所長も言ってたんですけど…」
「いや、その、なんですね、ええと…こっちはもう忙しいようですから。宿に戻りませんか？　もういい時間でしょうし」
　とりあえず、とりあえずでいいんだ。この場から去ってしまえばそれはもう…どうにかなるはずなんだ。
「さ、みんな、もう行きましょう。あ、ヤロミーラさん、ボクたちもう戻りますんで…色々ありがとうございました。ビーチェのことはまた後で連絡します。シャーマニーさんも…あ、お疲れ様です。…さあ、行きましょう、みなさん」
　やっぱ不自然だ。でもアレのことを話すのはやっぱりイヤなんだ。恥ずかしいから。でもこれでなんとかごまかせるんじゃないのかな…。

　と、思ってたんだけどね…甘かった。ひじょーに甘かった。

　ジャスミンさんの宿屋へ着いた頃にはもう夕方になっていて、路地のあちこちから美味そうな匂いが立ち込めているような状態だった。煮物、焼き物、炒め物。香辛料の類も豊富なカラドリアだから（シムシュなんかその典型だね。何種類もの香辛料のタレに漬け込んでから火を通すんだし）色んな匂いがしてくる。ゲルンタージュだとそうでもないのは家の大きさもあるんだろうか…こう言ったらラン君に怒られるかも知れないけどね。でもこの辺りは本当に小さな家が多くて、まるでひしめき合ってるようにも見える。だからこういう匂いも外にまでよく出てくるのかも知れない。それも家によって作り方が違うんだそうで、ということは香辛料の混ぜ方なんかも各家庭によって違うんだそうで、さらに複雑でしかも美味そうな匂いが路地裏にまで充満している…。
　ジャスミンさんの宿屋には食堂というものがない。どこで食べるか、と言えばそれぞれの部屋なんだ。ベッドは造りも頑丈なんだけどちょっとしたコツがあって、四本の脚を簡単に折り畳むことができる。大きめのテーブルを無料で貸してくれるから、二つのベッドを壁際へ立てかけて、テーブルを部屋の真ん中に置けばそこで食事ができるようになってる。料理も出ないんだけど…だから宿代も驚くほど…うちとは比べ物にならないくらい…安いんだけども。
　でも心配はいらないんだ。この時間になるとそこらの路地のあちこちに屋台が出てくるんだ。もちろんそこで食べたっていいんだけど、何人かいるのならあちこちで食べ物を買っておいて宿屋で皆で色んな料理を食べる、というのは一種カラドリアならではのスタイルなんだそうだけど…。
「このシムシュはな、リンゼイさんとこのとはまた一味違うんだぜ。タレに漬け込む時間を短くする代わりに味付けが濃いんだ。屋台でささっと売るための知恵だあな」
　と、皿の上には串から外した肉がどっさり。付け合せの野菜はサービスなんだそうで、これもどっさり。
「あ、さすがですねえ、ランカスターさん。これ、あたしの知ってる屋台なんですけどね、なんと肉を半生状態で焼いて出してくれるんですよ。材料に自信がないとなかなかこういうのはできませんよねえ…行列までできちゃって、買うの大変なんですから」
　と、薄く切ってあって、中がほんのりピンクになってる肉が皿にどっさり。
「カラドリアはね、実は野菜も豊富なんだ。ゲマ街道周辺に契約農家があってそこで作った野菜も多いんだね。だからそういう野菜と香辛料を上手に合わせるからこういう美味いスープもできるんだね」
　と、ジャスミンさんに借りた鍋いっぱいのスープ。
　ボクはボクで美味しそうなパン…食べてみたらめちゃくちゃ美味しかったんだ。うちでセルゲイさんが作ってくれるのとはまた違った風味と言うか味わいがあって。小麦の優しい香りがふんわりと鼻をくすぐってきて、余計なことをしないで直球に材料だけで勝負してきてるそういう潔さすら感じてしまう。聞いてみたら窯は家にあって（家がパン屋で、夕方にこうやって屋台でも売ってるんだそうだ）朝と昼に焼いてるんだって。…焼きたてはもちろん美味いんだろうけど、この時間になってもまだまだ美味いパンがあるってのも…すごいことだと思うのだけれど。
　で、そういう色々な食材とエイミーさんがどこかから持って来てくれたワインの一瓶。テーブルを四人で囲むような形なんだけど…。

「いやー…マルティン、こりゃうめえパンだな…オレのシムシュと野菜とはさむとこりゃ…たまらんな…」
「あたしの半生も忘れないでくださいよ？　スープにも合いますし、たしかにこれはたまりませんね…」
　って、なんであなたたち二人がまだいるんですか。

「そりゃあ、決まってるだろ？　例の『お手々』の件。話してもらわんとオレの寝つきが悪くなりそうだからな」
　君の寝つきなんかどーでもいいんだけど…。
　でもエイミーさんはボクの目をじっとのぞきこんできて…
「なんか、ちょっと違うような気がしてるんです。あたし、所長からあの話は聞いたんですけど」
　聞いちまってたのかー…。
「…マルティンさん、もしかして…ご自身のせいだと思ってます？　あれ？」