TheRootSeller 外伝 5 「あの山で ‐はるかなる思い‐」[1-2]

　やはりあちこちから鋭い視線を感じながら建物に近づいてみる。人の気配がするようなしないような。
　…なんだか異様だよな。
　周りには木々しかないのだ。もちろん普通の森とは全然違う。人が住む家は全て大木としてそびえ立っている。しかし目指す宿屋だけは石を組んでできている。異質ではある。よく見てみれば他にも一軒、二軒とそういう石造りの建物がないこともない。が、どれもこれも苔に覆われ屋根も壊れ、外壁がかろうじて残っている程度。人が住めるようなのは目の前にあるこれしかない。
　宿屋を示す看板もなければ窓もない。いや、窓にはびっちりと木の板がはめこんである。窓を開けられないようにしてあるのか、それとも開けたくないのだろうか…？
「ごめんください」
　ドアは木のドアだ。軽くノックしてみる。…あまりいい音はしない。湿ってしまっているのか中に響いているような気がしない。…もうちょっと強く叩いてみるか。
「ごめんください」
　殴るとまではいかない程度。すると、ふわり、と漂ってくる香りがある。
　…花？
　何かどこかで嗅いだような気もする。花畑とまではいかないが、ゆるゆると流れる川の土手で咲き誇る可憐な花の数々。そんな場所にやはりゆったりと流れる甘い香り。
　…いや、違うな。
　これは森の中でたまにある開けた場所。そんな競争の激しい場所を好んで咲くような、性根の座った花の香りだ、とレナートは直感的に感じた。ただきれいなだけの花ではない。

　かすかに開いたドアのすきまには小さな目が二つ。ちらりとまたたいてからやはりじっと小さな光をたたえている。
「すまない。旅の者なのだけど…ちょっと教えてもらいたいのだけど」
「………」
「カチネの御山のことなんだけど…」
「………」
「くわしいことを知りたいんだ。道順とか休憩場所とか」
「………」
「あ。いや、迷惑なら別にいいんだ。僕が一人で越えるだけだから。…邪魔したね。じゃあ…」
　軽く手を挙げて去ろうとする。が、ドアはいきなり大きく開いた。そしてレナートの手首を遠慮も何もなく掴む白くて小さな手。
「入ってください。お願いします」

　やはりふわり、と花の香りが漂ってきた。それも、前よりも濃厚に。それもそのはず、目の前の娘からその香りがしているのだ。
　…いい匂いなんだけど…。
　何かが、違う。どんな、何を、と言われてもレナートにも十分に説明できない。作られた香りでもない。これは間違いなく花の香りなのだ。そういう香水や香油を扱ったこともあるし、実際に精製したことも何度かある。だから、なおのことそう思うのだが…同時に妙な違和感も感じてしまうのも事実なのだ。
　…強すぎるのかな。
　若い娘がつけるにしては強すぎる。そんなことも思ったのだが…。

　ばたん、とドアが壊れるのではないか、というほどの深くて重い音でレナートは我を取り戻す。…宿屋、と言う割には中が暗い。そうだ、窓に板を打ち付けてあったな…と思い出すのにそれほど時間はかからなかった。
「…こちらへ」
　さっきの娘の声がする。とりあえず歩を進めてみる。床まで石になっているようだ。靴裏から響く音も木の板のようには響かない、重い音だ。
　ふと。レナートは気がついた。ここに入ってからあの花の香りがしないことを。あの娘はきちんと目の前を歩いているのに。まるでさっきまで漂っていた香りが全てまぼろしか何かだったようにも思えてしまうほど、きっぱりとなくなってしまっている。

　それでも宿屋というだけあって中にはカウンターもあれば鍵の吊り下がった壁もあるようだ。しかし全てが石でできているらしい。暗がりに目の慣れてきたのだろう、レナートにもそういう細かいところが見て取れるようになってきた。しかし…木だらけの村にあってほとんど全てが石造りの建物。しかもここが宿屋だと言う。
　…お客なんか来るんだろうか。
　素直にそう思ってしまう。こんな村の体質からしてそうそう客など望めるはずもないのだが…。
「こっちでちょっと待っていてください。部屋を確認してきますので」
「いや、泊まるまではいかなくても…」
　と、その瞬間、目の前にわだかまった闇から何かが起き上がるのを感じた。もう大分慣れているはずのレナートの目でもそれは見上げるほど大きな…そう、獣のように見えた。それでも彼がその場から動かなかったのにはわけがある。石の床の上を、ごとり、ごとり、とそれこそ石をぶつけながら規則正しい音がしてきたからだ。…これは…靴の音だ。
「ナルシア。客か？」
　頭上からやや斜めに降ってくる太い声。一瞬の間があった。ナルシア、というのがあの娘の名前なのだろうか。彼女がうなずいて見せたのかも知れない。だが、レナートには確認することはできなかった。
「そうか。まあ、座れよ。…おっといけねえ…今明りをつけてやろう」
　じ・じ…と羽虫の鳴き声のような音がして、辺りが深い橙色に染まる。橙色の闇に沈んだ、と言ってもいいだろう。橙色の外は全て黒い闇なのだから。