TheRootSeller 外伝 5 「あの山で ‐はるかなる思い‐」[1-9]

　ハイペ・クライドン。
　数千年前に生きた古代の哲学者だが、医者の祖、とも呼ばれている。
　無論彼の書物が今まで残っているわけではない。彼の弟子たちが彼の思想を広め…今の医者の基礎を築いた、とされている。ほとんど伝説じみた話だが、今でも彼を崇めている医者は多い。信仰の対象としてまつっている村もある。
　医者によっては医学書を出版する時には、必ず『ハイペ・クライドン』の名を表紙に刻むという。
「…まさか…」
　あの本か？
　…若旦那に「十日」と刻限を決めていたのもそのせいかも知れない。
　ニンダスからラサルートまでは直通の街道を使えば五日もかからない。ナルシアの情報が正しいとして…今から十日前にニンダスを薬の原材料を積んだ馬車が出たとする。…積荷も多いだろうから、速度も遅い。七日はかかるだろう。それを考えても…明日くらいにはラサルートには到着できる。いや、もう着いているかも知れない。
　…勘定は合う…。
　今彼が預かっている本は…やはり…そのための本か…？

「あの…レナートさん…？」
　あっけに取られているナルシア。
「ヨンクルはまだ起きてる？」
「え、ええ…父さんとまだカードをやってると思いますけど…」

「ヨンクル！」
「…レナート？　どうした？」
　少し赤い顔でヨンクルが振り返る。タルリスもちらりと顔を上げた。テーブルの上は正に賭場となってカードが何枚も重なっている。酒もやっているのだろう、大きなジョッキが二つ。この地方では木から割り出すのが普通だが、陶製のものを使っているのはやはり信仰があるからだろうか。
「ラサルートで疫病が流行っているのは本当か？」
「ああ。だけど…特効薬が来るんだろ？　そんならもう大丈夫だろ」
「違う…その薬のために本がいると聞いた」
「本…」
　かすかに天を仰いで…。
「ああ！　そうだな。うん。ハイ、ハ…なんとかドンの本がいる、とか言ってたな。うん」
「ハイペ・クライドン？」
「…そんな名前だったかな？　ナルシア？」
　いつの間にか背後にくっついて来ていたナルシアが、小さくうなずく。
「題名を思い出せないか？」
「…題名。題名なあ…」
　今度は腕を組んで考え込む。

「おいおい。無理するな…あまり聞かない題名だったんだろ」
　タルリスがからかうように言う。
「まあ…そりゃあそうだろ。本なんかここ何十年もお目にかかってねえからな…」
「何十年？　ウソつけ。お前が本を読んでるところなんか見たことねえよ。…おら、これでリーチだ」
「あ、てめ、あー…うん、そうさなあ…」
　自分が不利になったからか、それとも別のことか。情けなさそうな、それでいて恥じているような表情で頬の辺りを軽く指先でかいていたりする。
「分からない？」
「いや…待てよー…ああ、なんとかガイロンだ。うん、なんとかガイロン」
　ちらりと後ろのナルシアを振り返る。軽く首を傾げて…ふるふると首を横に何度も振る。知らないらしい。
「…なんとか概論？」
「そんな名前だったと思うぜ」
「…そうか」
「どうだ？　おめえも一勝負？　どうせヒマだろ？」
「悪い。ちょっと急ぎの用ができた」

　部屋に戻る。ナルシアが不思議そうな顔のままついてくる。
　何も言わずに背嚢からあの本を取り出す。表紙には『ハイペ・クライドン』の文字しかない。分厚いその表紙をめくってみると…『ハイペ・クライドンによる医学実践概論』とある。
　レナートは大きなため息をついた。