TheRootSeller 外伝 5 「あの山で ‐はるかなる思い‐」[1-10]

「すまないけど、やっぱり僕はこれからカチネ山を越えないといけない」
　背嚢を手早くまとめ始める。
　正直、この本が本当にラサルートで必要とされているその本なのかどうか…根拠も自信もない。
　ハイペ・クライドンに関する本なら探せばいくらでも出てくる。『なんとか概論』などそれこそ星の数ほどあるだろう。しかも題名もはっきりしていない。この古そうな本に現代の病気について載っているとも思えない。
　だが…。
「これは宿賃だ。ヨンクルとタルリス…それに爺さんによろしく言っておいてくれ」
　ナルシアの柔らかい手に何枚かの銀貨を握らせる。相場よりも高いが、情報に対する礼金の意味もある。
「いけません。今、カチネの御山へ行っては…」

「山の精霊様がお怒りになる、か」
　レナートは手も休めず、背嚢から視線もはずさない。
「そうです。あなたは精霊様の恐ろしさを何もご存じないのですから」
「でもね…もし、この本がなくてラサルートの人たちが何人も何人も死んだらどうする？」
「…それは…」
　言葉を飲む。何か言いかけて…やめる。
「安っぽい優越感から僕は言ってるんじゃない」
「じゃあ、何なんですか？」
「…そうなったらはっきり言って寝覚めが悪い。それに…」
「それに？」
「これは信用の問題だ。俺にこの本を預けてくれたノギヤの若旦那と医者の先生に対する、ね」

　太陽はすでに空にはない。少し雲の多い夜空のすきまには満月が灯っている。
　窓には板が打ち付けてあるから、こっそりと裏口から抜け出すことになる。爺さんが戻ってきた時に使っていた出入り口だ。本来の出入り口付近ではあの二人が酒盛りやら賭博やらやっている。…ヨンクルはともかくタルリスと爺さんに見つかったら何を言われるか分からない。多分連れ戻されるだろう。
　ドアをそっと開けてみる。夜の空気が切り裂くように涼しい。この時間だとさすがに外にも誰もいないようだ…いや、本当は誰かがそこらの木からこっちをうかがっているのかも知れない。気配はない。でもそんなことがあってもおかしくはない。

「道には迷いそうもないな」
「ええ」
　山へは森を抜けていくのだと言う。スタズ村の奥の奥へと向かう。…覆いかぶさってくる木々。その密度が増していくような奇妙な感覚。
「すまないな」
「いいえ…」
　ナルシアが森の入り口まで案内してくれる。満月の穏やかな光が、木々の間にぽっかりと口を開けている道の入り口を静かに照らしている。

「必ず戻ってきてください」
「…どうかな。それは言えない。いつか会えたらまた会おう、とだけ言っている」
　一度別れたら二度目に会える保証などない。だから彼はいつもこう言っている。それだけのことだ。
「ひどい人…」
「何か？」
「いいえ。…これをどうぞ」
　重ねた手のひらの上には親指の先ほどの小さな木の実。
「え…木の実…？」
「お守りです。私が念を込めました。レナートさんが無事にカチネの御山を越えられたら…私のところに戻ってきます。戻って来なかったらあなたは山で死んだ。そういうことになります」
　なんだおまじないか…と思ったがナルシアは真剣な表情だ。木々の間を縫って降りてくる柔らかい月の光が瞳に反射している。
「…わかった。ありがたくもらっておくよ」
　懐に押し込む。ナルシアに背を向ける。
「じゃあ、生きていたらまた会おう」
「必ず会います」

　軽く右手を振って…レナートはカチネ山を目指したのだった。