TheRootSeller 外伝 5 「あの山で ‐はるかなる思い‐」[2-4]

　左に曲がってしまうと、もうあの石棺は見えない。
　…いや、本当にそんなものがあったのかどうかすら定かではなくなってくる…。

　…ぼうん。

　そんな音がしたような気がする。

　夜鳥の声はもう聞こえない。右も左も森になっている。切り取られたように整地された道だけが前へと伸びる。
　背嚢を担ぎ直す。かちゃかちゃという音がする。
　だが、それだけだ。後はレナート自身の息の音と…。

　…ぼうん。

　今度ははっきりと聞こえた。
　…梵鐘？
　この周辺やラサルート近郊ではない、もっと別の地方の寺院で撞かれる鐘のことだ。時刻を知らせたりする時にも使うし、村で何かあった時にも使われる。

　…ぼうん。

　…いや、違う。
　こんな夜中に撞かれることはまずない。それにそんな鐘はこの辺にはまずない。寺院そのものがないのだ。個人のコレクションで持っている、とかそういうケースもあり得るだろう。よその地方の珍しい物品だから…ということで全然違う地方にあってもおかしい話ではない。
　しかしそんなものを撞くだろうか。
　コレクションならなおのこと。珍しい品なら大事されているだろう。

　…僕は…何を考えている。
　夜鳥の一種かも知れない。鳥の中には信じられないような声を出す種類もある。こういった声で鳴いてもおかしくは…。

　…ぼうん…ぼうん…。

　反射的に立ち止まって首を巡らせる。どこから聞こえているか…そんなことは分からない。右手の森の中から、のような気もするし行く先の開けた道の先から、かも知れない。そういった訓練を受けている者なら分かるかも知れない。が、レナートはただのルートセラーにすぎない。
　一歩、踏み出すのをためらう。立ち止まってしまう。
　…今からスタズ村へ戻る、というのはどうだろう。
　そんな考えが湧いてくる。心のすき間を埋めていく。じわり、ではない。一気に埋め尽くされる。
　隊商が来るのを待ってまた山に入ればいい。タルリスやヨンクルには何か言われるだろう。でも、この先には…何が、あるというんだ？

　…ひどい人。

　ああ、そうさ。僕は…僕なんかはろくな人間じゃない。結局は安っぽい優越感からいきがって山を越えようとしている。ナルシアに吐いた言葉にウソはなかった。あの時は。でも今は…どうなんだ？　こんな基礎知識的な本、ラサルートじゃ必要としてないだろう。概論なんて名前の本はそんなもんだ。ノギヤの医者の先生だってそんなつもりもなかったはずだ。ただ、知り合いに本を譲りたかっただけ。
　それでも進むのか？
　足は動かない。一歩も。

　何か、ある。この山には。
　それは間違いない。何かが、ある…いや、いるのだ。この山には。伝承の類というのは歪められてはいるが事実をそのまま述べていることも多い。この山だって恐れられている、ということはちゃんとした理由がある、ということなんだ。それを…僕はいいところを見せようと破ってしまった…。

　…ぼうん…ぼうん…ぼうん…。

　世の中には破ってはいけない、よそ者が踏み込んではいけない領域だってある。そんなことは十分承知のはずだった。…僕は、僕は、僕は…。
　この先に進んじゃいけないんだ…。

　ぎゃああ、ぎゃああ、ぎゃああ！

　けたたましい夜鳥の声。今度は本当に大きな鳥が月の鮮やかな夜空へあわてたように旅立つ。
　…ふ、とレナートは我を取り戻した。
　…足が、動く。
　さっきまでだって別に何かに縛られていたわけではないのに、進めなかった。いや、進もうという気が起きなかった。気持ちがなければ足は前へとは動かない。

　…行こう。前へ。それしか僕にはない。

　背嚢を担ぎ直す。前へ足を進める。そして…やはりあの、ぼうん、という音は二度としない。