二人はそのサンザールへ入りつつあった。ようやく。
本当はペンネの大木を早めに出られたのだから、ちょっとでも早くジャヌアへ入れるだろうか…と思っていたのだが、ラゲーナ地区で道に迷ってしまったのである。街道筋には違いないのだが、さすがにセルシアス管内ともなるとただ単純に道なりに進んで行けばいい…ともいかなくなるものではある。だから、サンザールに着いた頃にはもう日も傾き始めてしまっていた。まだ夕方ではないがもうじき夕方となって暗くなろう…という時間である。
「バウア殿、バウア殿。あの宿など瀟洒でイカしているではありませぬか？ いかがでございましょう、今宵はあれにて美酒を傾けつつ…」
「あにバカ言ってんだ、ンな金あるわけねーだろ」
サンザールは高級なホテルやそこへ来る金持ちをあてこんだ施設ばかり。街道はやや曲がりながらこのまま中央区へと向かっている。別にサンザールでもジャヌアでも路面に変わりはない。ないはずなのだが…なんだか路面まで豪華に見えてきてしまうから不思議だ。
一つには照明の多さもある。
サンザールはベンザウリや中央区などと同じ、いやそれ以上に街灯の設備が充実している。夕方にもなれば火炎系を得意とする選任官が一つずつ火をつけていく様子を、まるで影絵でも楽しむように見ることができるだろう。ただ、こういういかにもろまんちっくな光景はサンザールのみである。ベンザウリでは街灯を一括して点灯できるシステムを導入しているし（選任官と技術師の努力の結晶でもある。発火所と呼ばれる施設で作られた火を各街灯へ輸送できるようにしてあるのだ）中央区など発展した地区にも同様の設備がある。サンザールではある意味観光の要素もあってこういう演出を残しているのだろう。
一方のジャヌアは…。
「相変わらずだな、ここは」
エーセストが思わずため息をつくほど、薄暗い。ここでは仮に街灯があっても誰も火をつけていかないのだ。
「うむ…何やら寒気がして参りましたぞ。これはいけませぬ。さ、バウア殿。ここは引き返して先ほどのイカした旅籠で…」
とか何とか言ってるフォロス老人を置いて、さっさと歩き出してしまう。…そうなると仕方ない。そんなエーセストの後を追うようについていくしかないのである。
淀んだ空気。消えぬ匂い。
ジャヌアはあんまり頻繁に来たい場所ではない、とエーセストも正直に思う。苔むし、角の歪んだ石畳を一歩一歩ずつ歩くことを考えるだけでも憂鬱になってくる。すれ違う人もまばらな時も多い。場所によっては誰もいないはずなのに古ぼけて崩れかけた家の中から人の気配を感じる時もある。暗闇に光る二つの目を見たような、あるいはどこからともなく下卑た笑い声が聞こえたような気がする…。
そんなジャヌアなのだが…なぜか手前のサンザールで泊まろう、とは思わないのである。金がないせいもあるのだが。
「しかし。バウア殿。いずこの宿に泊まりましょうや？」
さっきまで気にしていた旅籠のことは忘れたか、フォロス老人。
「お前は覚えてないかな…フロリスのとこでいいだろう。最近はご無沙汰だったしな」
「フロリス…」
しばし考えて…
「おお！ 以前バウア殿が依頼を受けた、あの宿屋でございますな？ なるほど、あすこならば一夜の宿として申し分ありませぬ。さあ、いざ参ろうではありませぬか！」
と、道を知っているのかいないのか目の前の曲がり角を左へ曲がろうとする。
「おいおい。そっちじゃねえよ。こっちのな、あの雑貨屋の角を、だな…」
言いかけて、ふと、指した指先が止まる。…雑貨屋が、ない。あるのはどう見ても一般住宅である。ただし、そこはジャヌアである。庭付きの豪華な一戸建てなどまずお目にかかれない。実際、そこに建っているのは二階建ての集合住宅なのだろうが二階部分はとても人の住めるような状態には見えない。壁が苔むして、を通り越して崩れ落ちているのだから。
それでも残り下半分には複数の住民が住んでいるようではある。干してある洗濯物…やや黄ばんでいる…が窓の中に見て取れる。元は透明だったのだろうがすでにすりガラスと変わらないくらいにかすんでしまっているので中の様子はそれくらいしか分からない。
「…間違えたかな」
ぼりぼりと頭をかく。角を一つ間違えただけでもこの有様なのだ。
「いかがなさいました、バウア殿？」
「久しぶりだからかな、道間違えちまったみたいだよアージェント」
「それがしの名はアレクサンダにございます」
「しゃーない。どっかそこらで適当に宿をとるか…」
「適当、とは聞き逃せませぬ。かようにいいかげんなる言葉の乱用が起きるが故に、曖昧さを優遇せし風潮が昨今流行りともてはやされるのでございましょう。ここは一つ身の丈に合った宿を探そうぞ、アレクサンダと言い換えなされ」
…別にどっちだっていいんだが。
「そっか。じゃあ、身の丈なんちゃらの宿を探すぞアンダー」
「それがしの名はアレクサンダにございますっ」
『適当』な安宿なら探すまでもない。それこそ『適当』な商店街…雑多な店がただ集まっただけ…『適当』な住宅街…半壊した家が集まってるだけ…を『適当』に探せば二人の身の丈に合いそうな宿などいくらでも見つかる。ただ、問題なのはその宿が安全なのかどうか、うっかり泊まっても大丈夫なのか、ということだけである。
通常の二倍三倍は当たり前の料金ぼったくりの宿は言うに及ばず。うかつに泊まるとオプションと称してそっち系の女性を押し付けてきたり必要もない商品を売りつけてきたり。あるいはサービスだと言うお茶に薬を仕込んで眠らせて身ぐるみ剥ぐ…という宿もあるにはある。地元の知り合いでもいればそういう宿を避けることは可能だが、旅慣れない連中がそう簡単にこんな場所で知り合いなど作れるはずもない。
