「…ちょっと黙ってろアルパイン」
「それがしの名はアレクサ…むぐう」
めんどくさいのでそのまま口を手でふさいでしまう。空いた手で銅貨を一枚手渡す。
「これでいいだろ」
「…ふん。あんたも不景気なんだね。まあ、いいさ。ここを出て右手に三軒目。見た目は普通の家だけどね、中身は立派な宿屋さ。フロリスの紹介で…と言えば少しは安くしてくれる」
無遠慮にタバコを灰皿に押し付ける。
「ただし、あんまり期待するんじゃないよ。食事は一食だけだしね。…それでいいかい？」
「ああ、十分だ」
フォロス老人を抱えたまま立ち上がるエーセスト。…もう一枚、今度は銀貨をフロリスに渡しておく。さっきの銅貨一枚は前金みたいなもので、こっちは案内料兼安心料みたいなものである（建前は案内所は無料）。どうせ紹介料とか称して宿屋から宿賃の一部をゆすり取るつもりなんだろう。その分とは別に渡しておけば面識もなく相場も分からない宿屋でボッたくられる心配が減る。銀貨一枚でそういう安心が買えるなら安いものである。
なお、サンザールなら一泊銀貨で数十枚するのも珍しくはない。ホテルによっては金貨で数百枚なんぞという一般人の年収くらいしたりするのだから。
もう辺りは暗くなってきている。すでに日は落ちて闇が少しずつ少しずつ空気を侵食している時間帯。…これは早めに宿が見つかって正解である。案内所だって夜中まで開いてるわけではないのだ。
果たしてその宿屋で請求されたのは前金（ジャヌアでは当たり前）で一部屋一泊銀貨二枚だった。ここらの宿屋は一泊銀貨三枚くらいが相場だから銀貨一枚安くしてもらった、と考えることもできる。しかし食事は別料金だと言う。
「ま、こんなもんか」
「どうする？ 食べるかね？ 食べないかね？」
せっかちそうな爺さんが宿屋の主。痩せた頬の細い体は意外と俊敏そうだ。中を見回してみると…やっぱり普通の民家である。特に改築も何もしていない辺りがある意味ジャヌアっぽい。
「食べるよ。いくらだい？」
「二人で銀貨一枚」
「そうくるか…」
「どうすんだい？ こっちは値引きはできねえぞ」
「分かった。じゃ、これで頼む」
銀貨を一枚、手渡す。
「よし。今日の夕方と明日の朝な。はっきりした時間は決まってねえが、大体の時間に食堂に来な。食わしてやる」
…一食じゃなかったのか。
結局損をしたのかしてないのか、よく分からなくなってきたエーセストではある（実際は銀貨と銅貨一枚ずつマイナスになっているようなものだが）。こういう曖昧でいい加減なところがジャヌアの味でもある。
…まあ、でも一食ってのはフロリスが言ってただけだからなあ…。
つまり通常の代金はやはり銀貨三枚。それがフロリスが言う「値引き」で銀貨二枚。そのうちの一部をフロリスが持っていくから爺さんの懐には銀貨二枚未満が入ってくることになる。しかし食事代で銀貨一枚を取り戻せるなら銀貨三枚にちょっと欠ける程度で済むことになる。
そして。本当は最初から二食食わせてくれる宿屋だったのかも知れない。「一食だよ」と低く見せていおいて実は二食でした、となればお得感が出てくる。そこから食いつかせて泊まらせよう、確実に小金を稼いでやろう、というフロリスの作戦だったかも知れない、ということである。
…まあ、ほんと、どっちでもいいんだがよ。
やってることはたしかにがめついが、宿の安全に問題はなさそうだからである。ここでフロリスと爺さんがグルで食事に一服盛って客を身ぐるみ剥いで放り出す…という可能性だってないわけではない。しかしフロリスとは色々あって馴染みである。信用はできるだろう。それに二人がそれほど金持ちでないことはよく知ってるはずである。そこまではしないだろう。…が、それでも何があるのか分からないのもジャヌアである。フロリスが何かで心変わりして…ということだってあり得る。
だがしかし。まあ、それでもどうにかなるだろう…と思わせてしまうのもまたジャヌアなのである。もし本当にそういういわゆる「悪」しか存在していない町だったらここまで存在できていない、という言い方もできる。あまりに治安が悪いから中央区の当局が介入して…とかそういうものではない。そんな町、誰も寄り付かなくなるからだ。入ったよそ者全員が全員それこそ身ぐるみ剥がれて放り出される、なんて町に行こうと思う物好きはそうそういない。
どんな町にでも光と影はある。「悪」と「善」で簡単に割り切れるものでもないのである。
ジャヌアの影をそういった無法者がはびこる闇、とするならば光はいかにも人間くさくて気の置けないところになるだろう。慣れてきたら他で泊まる気など起きなくなる、と高名な作家が書いていたりするくらいである。
サンザールの高級ホテルではこういったやり取りはまず経験できない。あちらでは事前にホテル側が決めてある金額に従うのが客のマナーであり当然のルール。値段にゴネたり値引きでもさせようものなら追い出されることになっている。…しかし、そんなサンザールのホテルは余計な気を回さなくても安全そのものである。こういうところがサンザールの「光」と「闇」と言えるのかも知れない。
