こういう宿にしてはなかなかの内容に見える夕食を食べ、案内された部屋にはベッドが一つ。増設用の簡易寝台を頼むとやはり金を取られるだろう。
「バウア殿がベッドをお使いくだされ。それがしはここで十分」
こういうとこでは気を使うフォロス老人。荷物から毛布を取り出して床に敷く。
「悪いな」
「気になさいますな。…しかしジャヌアとは変わらずに空気の淀んだ町にございますな。こういうところは早々に通り過ぎるがよろしいでしょう」
「…そうだな」
…明日はメシ食ったら早めに出るか。
どうにもいくつか気になることのあるエーセストなのだった。もちろんマルガレーテから来た手紙とあの謎の手紙のことも気になってはいるのだが、それとは別のことなのである。
一つ目はベンザウリでビージェイが言っていたこと。『祝祭』である。
二つ目は休憩所で聞いたこと。『魔法の暴走』である。
三つ目はフロリスの言う『区画整理』である。
その他にも細かいところでどうにも心に引っかかることはある。が、どうもこれらのことが気になって仕方ない。ごろりと寝返りをうつも簡単に眠りに落ちていけそうもない。
床ではフォロス老人が豪快かつ地響きのようないびきをかいて眠っている。うらやましいもんだ、と素直に思ってしまう。
ジャヌアの夜は意外と静かなのだ。時折ネコがどこかの塀に舞い降りる密やかな音を聞いたような気がする。あるいは時期はずれの羽虫がありもしない家の明りを望んで窓を叩いている…そんな音まで聞こえてしまうような気になってしまう。何せ街灯も何もない町なのだ。夜になったら月明かりしかないのである。そんなとこを出歩く人間がいるとしたら犯罪者か精神に異常をきたした人間か…あるいは夜が好き、という物好きくらいだろう。もちろん、エーセストはそういった類の人間ではない。
寝返りをもう一つ。
いくつかのキーワードが目の前をちらちらと踊っている。そういうイメージをしてみる。『祝祭』は大柄で偉そうだが、どこか憎めない男性の雰囲気。立派な帽子に豪華なステッキ。『魔法の暴走』は神経質そうな女性と言ったところか。いつもあちこちに目を光らせている。『区画整理』は…何だろう、はあ、とため息をついて座り込んでしまっている幸薄そうな細身の男性。そんなイメージ。
そんなのが踊っている、というのもなんだか変なのだが。普通に起きている状態ならこんな珍妙なことを考えたりはしないだろう。エーセストの意識は今、睡眠という海に沈みつつある小さなボートといったところである。底に開いた穴は小さいから一気に沈んだりはしない。ただ乗っているエーセストは別に入ってくる水をかい出したりはしないからどんどん沈んで行っているのである。そんなに時間のかからないうちに眠りの海に彼の意識は沈んでしまうだろう。
そんな、とろとろと心地よい眠りへの誘い。目の前で踊る『何か』たち。
しかし…『祝祭』がいきなりエーセストに向かって雄弁に語り始める。大げさな身ぶり手ぶり。しかしその声は聞こえない。何かしゃべっているし羽蟻のささやきみたいな小さな雑音は耳に入っているのだが、どうしても内容が聞き取れない。さらに『祝祭』だけではなく他の『魔法の暴走』『区画整理』たちもがやがやと騒ぎ始めた。…何か言ってるのは分かる。しかし何を言っているのかがどうしても分からない。
…何を言ってるんだ…。
と、手を伸ばした瞬間、『何か』たちは全て消え失せた。そして…目に飛び込んでくるのは明るい日差し。朝だ。
…変わる。変わっちゃうよ。……が変わっちゃうよ。
そんな声を聞いたような気もするのだが。よくは分からない。
「バウア殿。食べないと進めませんぞ。かような宿にしてはなかなかに良い食事ではありませぬか」
「まあな」
あたたかいスープに焼きたてのパン。昨日の夕食と同じではあるが、食べ放題である。これで二人で銀貨一枚なら安すぎる。…ただし、スープに浮かぶ肉だか魚だかはどこのものか知れないわけだし、パンには付け合せも何もない。しかもパンの色も白くはなくどこか茶色がかっている。質の良い小麦粉を使っているわけではないのだろう。サンザール辺りなら誰も食べないのではないだろうか。しかし、こういうところではこれは間違いなくご馳走の部類に入る。
だから考え事をしているエーセストも食べていないわけではない。ただ、スープの皿を何気なくスプーンでかき混ぜていたり、パンを千切ったまま、ぼおっとしていたりするものだからフォロス老人が気になった、という次第なのである。
「うし。とにかく食べようぜ。…考えるのは技研に着いてからだ、うん」
ジャヌア地区を抜ける。ベンザウリからここまで導いてくれた街道へ戻る道行きでもある。
暗くどんよりとしたジャヌアからその隣のオレイアム地区へ。さらにカルテッサ地区を経ると街道は道となって中央区へと繋がっていく。その中央区のさらに奥が技研のあるパトマス地区になる。それぞれの地区は以前はその名前を持つ村や町だった。全てが一種の『衛星都市』だったわけで…数百年に渡ってセルシアスがたくさんのヒトとモノを惹きつけてきた結果でもある。
