箱の設置は基本、各地区に一つずつ。しかし地区によっては非常に広い場合もある。そこで複数置いてある地区もあるし、各地区の状況や事情てのはそれぞれに違いがある。例えばジャヌアなんかではうかつな場所に置いてしまうといたずらされたり持ち逃げされたりしてしまう。だから警備隊本部や支部に置くのが通例となっている。あるいはサンザールだと箱には綺麗な飾りつけが施され、一二を争う高級ホテルのロビーに澄まして鎮座されるのだそうな。もちろんよそから来る人が多い地区なので本当に『お遊び』になってしまうのだろう。しかし不思議なことにセルシアスに二度と来れなくなってしまったような人の願い事が当選したことはないらしい。逆に来るつもりはなかったのだけど、ひょんなことで再び来ることができるようになった…てな人の願い事がかなった例は過去に存在しているらしい。
何せ数百年も続いている行事ではある。これまでにも様々なことがあったのだろう。
場合によってはその『様々なこと』に含まれてしまいそうな彼、エーセストは一人で技研の食堂に陣取っていた。用紙や箱の搬出が終われば技研でやることは一旦お休みとなる。ほとんどが自宅に帰ったり仮眠室で仮眠したりするのだが…彼は寝ることもなくここへやってきた。もちろん自分の願い事を紙に書き込んでいくためである。事情を知ってる職員の人が何人かのぞきに来たりもしたが、手伝ってくれることもなく一人で黙々と作業を進めていく。
『僕が僕のままでいられますように』
最初はこんな風に書いていたらしい。しかし…なんだかクサイ文言ではあるし、別の意味に勘違いされそうでもある。例えば年を取らなくなるとか、時間止められるとか（相当に疑り深くなっている）。門のところの食堂『アドニスの店』の店主も言っていたではないか、もう少し具体的に書いておけば良かった、と。
『僕が僕のままでいられますように。余計な魔法にかかりませんように』
これも何か変である。下手をすると今後一切魔法にかからないようなことになる恐れもある。魔法選任官としてはそれはちょっと困ることになり兼ねない。依頼によっては他の選任官と組むことだってあるのだ。そいつの魔法がエーセストには効かない、となったら仕事に差し支えることも考えられる。
『このまま僕が僕のまま何事もなくベンザウリに帰れますように』
結局この文言に落ち着いたようだ。これなら何かあるとしてもそれを全部無効にできる。
「はかどってますか？」
ふと、顔を上げてみるとルドミラが笑みを浮かべてのぞきこんできた。集中していたエーセストが食堂のテーブルに突っ伏すような姿勢になっているので、手を後ろに組んで顔を体ごと傾けてくるような格好になっている。柔らかそうな髪の毛がさらりとテーブルすれすれにまで垂れ下がってきている。
「まあな」
「時間が空きましたので、お手伝いに参りました。これと同じことを書いていけばいいんですか？」
エーセストの向かいにゆっくりと腰を下ろして、書き込まれた願い事の一つを手に取る。
「ああ。頼む。…すまねえな」
「気にしないでください。やっぱり惜しい気はしますけど、一度協力すると申し上げた以上、協力はさせて頂きますわ」
…やっぱり惜しいとか思うのかよ。
技研でも何人かに事情を話している。その皆に共通するのが『惜しいなあ』『もったいないなあ』という反応なのである。どうもシーカーに変われるというのはとてつもなくラッキーで名誉なことだ、という認識があるようなのである。実際、最高の魔法選任官とか呼ばれていたのは事実である。感謝状や勲章の類はかなりの数、家にある。それを見ながら育っているエーセストでもある。
…ただ…あの親父だぞ。
無条件で喜べるわけなぞないのである。あんな変人になるって考えただけでもぞっとする。しかも俺が俺じゃなくなるってのは…。
「どうかしましたか？ 手が止まってますけど…？」
「いや、なんでもない…そうだ、アルファの奴は何事もなくやってるのかな？」
「アルファ…ああ、フォロス様ですか。ザウス様の付き添いということで今は中央区です。もうじき帰って来られると思いますよ」
フォロス老人はここにはいない。今度は例の箱の設置関係でマルガレーテが中央区に出向いているのでそれの付き添いに行ったのである。通常なら技研の『希望願望達成祈願』の責任者は技研の建物から動くことはないんだそうだが…今回は何か特別な用事があって中央区にまで出向くことになったらしい。本来ならルドミラが一緒に行くべきなのだろう。が、あっちでも箱を置く、という単純な力仕事がある、という話になったのでフォロス老人が自ら買って出たのである。そこでマルガレーテが「じゃあ助手の交換しよっか」とか脳天気に言い出したのでルドミラがこっちに残った、というわけであるが…ルドミラはルドミラで技研ででやらないといけないこともあるので、こっちに残って正解ではある。逆に…箱も何もここにはない現状、力だけがあり余っていそうなフォロス老人がいてもすることはない。
もちろんルドミラだってエーセストのことにかかりきりになるわけにもいかない。実は結構忙しい身だったりするのだ。
しばし、黙々と願い事を書き込んで行くだけの二人。朝食はさっき終わったばかりで昼食には当然まだまだ早い。時間が少しずれているのか、食堂にはちょっと茶を飲みに来たのがぽつぽついるくらいでほとんど誰もいない。
今日も天気は良いようである。差し込んでくる日差しは暑いほどではないがたっぷりとしたものである。大きな窓ガラスが一面にはめこんであるのでここは技研の中でも大変に明るい場所の一つでもある。最も陽があたる場所は、と言うと洗濯物干しにも使われる屋上なのであるが。
