わずかにレグモス神父の表情が動く。
「いいえ…」
「言いにくいんですけど…この人、ウソを書くのが好きな人、って好事家の間では評判なんです。歴史上の大きな事件には絡んでないので有名ではないですけど…例えば自分が行ったこともない国の旅行記を書いてしまうとか」
「その年代の人ならよくあることではありませんかな？」
交通機関や街道もそれほど発達していなかった時代だ。旅行できる人間が限られていたため、ウソでもそういう旅行記は歓迎されていたらしい。
「それはそうなんですが…下調べが綿密な上に書き方がかなり巧妙なんで…ウソだ、って当時はばれにくかったらしいんです。今はすぐばれますけど」
「…なるほど。どちらかと言えば小説のようなもの、ということですかな」
「そうです。創作として読む分には面白いのですが、歴史資料としては…どうかな、と」
「つまりイポイの話はウソではないか、と？」
「ええ。例えばこの記述ですけど…『イポイは実るほどに穂が地面に近付き、やがて地面にもぐってしまう…』って、どこか変じゃないですか？」
ぱらぱらとページをめくってその箇所を指す。身を乗り出すようにレグモス神父もそれをのぞきこんだ。
「今はない植物ですからそういうこともあったのでは？」
「いえ、その後の『そしてイポイは自らを肥料としてしまう』ってのが特に…イポイはどんな土地でも育ちます。でもそれは自分の実を犠牲にするからではないはずです。もしそうなら荒地に植えた最初の年は収穫できないでしょうし…それに、イポイの根には小さなこぶがある、とキュビヤの本で読んだことがあります」
「キュビヤは私も知っています。伝承を自身の目で確認することに命を賭けた博物学者ですな」
ゆったりと椅子に体を戻すと、ぐるりと室内を見回す。ここにもそのキュビヤが書いた本があるのかも知れない。
「完全に正しいとは言い切れますまい…キュビヤは百年ほど昔の人物です。イポイを知っていたとは思えない」
「ですが…その他、例えば彼の年代ではすでに死に絶えていた、とされていたはずのシフについては明確な記述を『比較検証学講義』に残しています。今でも通用するほどです」
「シフ…？」
「五百年も昔に滅んでしまった、と言われていたシカの一種です。ある大金持ちが山地を一地方ごと買い取って…そのまま代替わりなんかのごたごたがあって、他の地方では確認されなくなって…絶滅したと思われていたのです。見つかったのはつい最近…五十年ほど前のことです」
「ふうむ…」
「イポイについて、あたしの読んだキュビヤの本にはこう書かれてありました。『このこぶに何らかの作用があるのは間違いないと思われる。自らの実を肥料とするならば特殊な収穫方法が必要となるだろう。しかしどの古文書にもそれは記されていない…』こんな感じだったと覚えています」
レグモス神父は黙ってその話を聞いている。
「もしビールチェの書いたこの本が正しいのなら…イポイの実が地下に潜る前に収穫する方法が載っているはずです。例えば結実してから何日目に収穫すべし、とか。苗の育成方法とか種の保管方法は結構詳しく載っているのに、そういうことは一切載っていません」
「だから…この村がイポイの名産地だった、というこの本をそのまま鵜呑みにするのは…」
「ちょっとお待ちなさい、ドリスさん。あなたは勘違いをなさっておいでのようだ…」
「勘違い…？」
「私にとってはイポイがこの村にあったとしてもなかったとしてもどちらでもよいのです」
「…え…」
「この村を見てごらんなさい。誰も笑わない。若い者もいない。都へ行っても誰も帰ってこない。帰って来たのはクロードくらいでしょう」
「……」
「イポイはそんな皆にとって希望なのです。見つからなくてもいいのです」
「それは…」
何か言いたそうなドリスを、レグモス神父はそっと押しとどめる。
「もしかしたら見つかるかも知れない…そういう希望なのです。分かりますか？ ドリスさん」
ドリスにはなんとなく、だが分かるような気がしてきていた。
手にしていたモール・ビールチェの奇本をテーブルに戻して…ため息を一つ、ついた。
「でも…それだと、みんなをだましていることになりませんか…？」
「私は構わないのですよ。例え信仰に反しているとしても。そのウソで皆が少しでも、仮にでも、それこそ一時でも幸せを掴めればそれでいいのです」
にこ、と初めて笑った。少しぎこちない笑みだった。
ウソであっても本当であっても、どっちでもいい。
ただ、何かの希望になれば…。
知識を得て貯め込んでも…それだけでは…。
…本なんかよ、酒みてえなもンだ。あった方がいいけどよ、なくても生きて行けるってなもンだあな…。
誰かのそんな言葉がふと、頭をかすめた。
翌朝。クロードの家をドリスは発った。
もちろんレグモス神父のことは伏せておいたが、正直早いところ立ち去りたかった。クロードの奥さんは気さくな人で、彼女に明日も泊まっていかないか？ とまで言ってくれたのだが。
ドリスは考え込んだまま歩いている。誰もいない早朝の細い道。
「…あたしなんか、まだまだね…」
ファイーナが、かあ、と鳴いた。
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