どこからか変な音が聞こえてきた。
あまり聞くこともないが、どこかで聞いたこのあるような…音。いらないボロっボロの雑巾か何かでやる気なさそうに子供が泥を叩いて回っている…そんな風に聞こえないこともない。しかしドリスはかすかに身を固くして、そっと辺りを見回す。腰に吊るしたままになっている肘ほどのナタに手を伸ばす。
この辺りだと…大型の肉食獣もうろついているはずだ。他にも人の背丈ほどもある大きなトカゲが這い回っているのを見た、という話も聞く。…そんな動物がこんな、どこか抜けたような音を立てて獲物に近づくか…と言えば怪しいものだが。いずれにしてもあまり気持ちのいいものではない。
しかし、足音らしき物音は、ドリスとファイーナが雨宿りをしている即席天幕の前まで来て…止まった。
「…あ」
人間だ。上半身裸の若い男のようだ。何をしているのか、片方のてのひらを上に、もう片方をその下に。中腰のような身を屈めているだけのような、踏み出すにしては高い位置に足先を止めたまま…そんな怪しい格好で固まっている。
が、顔だけは地面に向けている。
「……」
ふと、その視線の先をたどってみると…あのキムジクサビラだ。雨に濡れてその橙色はさらに輝きを増している。細かい表情までは見えない。
「……」
どうするのかな、とドリスは思った。バネのように発達した筋肉が、すきまなく胸板や緩やかに盛り上がった肩先に息づいているのはここからでも見てとれる。大柄ではないが痩せ細っているわけではない。こういう若者は、この辺では普通に見ることができる。都会のように無駄な肉がついている人間は、まずいない。
そんな相手はドリスに気づいているのかいないのか。
伸ばした二つのてのひらと、上げたままの足先を宙に止めたまま、じっと地面を見つめている。
嫌になりそうな雨粒はその勢いをさらに増してきている。
「…あのねえ」
そのまっただ中から間延びした声が聞こえてきた。文のアタマに強いアクセントがある。この辺の人たちの特徴だ。
「これは、もらってもいいのかな」
その男性がしゃべっているは間違いない。ドリスはそっと目をこらして見た。…よく見えない。だけど、顔だけこっちに向けているのはここからでも、この雨の中でもよく分かる。
ぴかり、とその目が金属板をはめ込んでるような…そんな錯覚すら覚えてしまう。
「…ええ」
「そおう？」
お、にもアクセントがある。
「いらないの？」
「ええ」
「そおう。じゃ、もらうね」
一瞬だけ、身を屈めて…左手の先っぽだけでかすめ取るようにソレを拾う。
…どうするんだろう。
と思って見ていると、ふ、と顔を上げた。左手を天に掲げる。
つつつー…と左手が下がって、キムジクサビラの橙色が顔の辺りに消えた。
…あらま。
喉が上下に小さく動いたのが、ここからでも見えた。
「ん。どおも、ね」
それだけ言うとぱちぱちと目をしばたいて…ドリスを見て…ほこっと笑みを浮かべる。
上げたままになっていた右手のひらと足先をぴくっ、ぴくっ、と震わせて調子をとり始める。
「ホ、ホ、ホ」
その甲高い声が始まりの合図なのだろうか。右手のひらと左手のひらを交互に上げ下げして、軽く腰を屈めたまま…ぴしゃぴしゃと泥を小さく蹴り飛ばしながら、舞いながら去って行ってしまった。
「……」
それっきり雨の音以外何も聞こえなくなってしまった森の中。
…なんかあったっけ…キムジクサビラ。
食べても無害だが何の意味もない。宗教的な何か、とかはあるかも知れないが。
…ま…いいのかな…。
そっと立ち上がって雨の中に手を伸ばしてみる。まだ雨粒が手に当ると殴られているように痛い。しかし風も吹かない森の中。
「行こっか、ファイーナ」
背負子を担いでのぼりを差して。手頃な葉っぱを何枚か。傘がわりにするつもりだろう。さっさと土砂降りの中へと足を踏み出す。
ファイーナは…どうしようかな…と迷うように首をくるくる振る。しかし、さすがにそのまま即席天幕の下に残る気はないらしい。背負子のてっぺんと葉っぱの傘のすきまに隠れるように、その黒い身を滑り込ませる。
「…今日中に見つけないとね…依頼されたんだし…ね」
ぽつり、とつぶやく。
「…止めてしまったら…そこで終わりって…ことかな？」
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