TheRootSeller015『役割分担』

 音を忘れた霧雨が降り続く。さんさんと。昨日からこんな気が滅入る雨だったとかで、イルトンランドのこの町の人通りは少ない。ほとんどが濡れるのを嫌って軒下から軒下へと飛ぶように急ぐか、あきらめて雨に身を任せてしまっている…静かだ。まるで呼吸すらも忘れてしまったように静かだ。こんなに静かでもここは町の大通り。大通りは大通りではある。…そこそこの村でももっと人通りはあるものだが。
 そんな、誰かに忘れられてしまったような町の静かな一角。一人の少女がとことこと歩いてくる。小さな黒い傘を差しながら。その足元だけはこの通りも呼吸を思い出しているらしい。細いつま先から弧を描いて跳ね上がる、かすかな水音は非常に規則正しい。
 小さめに見える傘でも十分に隠れてしまいそうな体つき、それにきょろきょろとあちこちを見回す仕草は年端のいかない少女のもの。しかし薄い目元にはどこか皮肉っぽい笑みすら浮かんでいる。実際はそんなに幼いわけでもないのかも知れないし…あるいはこんな冷めた目つきになってしまうほどの境遇に生きているのかも知れない。しかし、この古びた町と、舞い落ちる霧雨に溶け込んでしまいそうなほど、その仕草はどこかはかない。
 …と、ある廃屋の前で立ち止まる。廃屋と言っても元々は立派なお屋敷。田舎のお屋敷にありがちな広い庭もない、通りからすぐに玄関のドアがあるという都会的な造りだが、玄関アーチの凝った装飾は今でも十分に美しい。ただし年月は情け容赦ない。かつては手入れの行き届いたお屋敷の素敵な玄関、だったのが今では枯れツタが隠然と巻きついて錆びた地金の浮き出した、幽霊屋敷の入り口になってしまっている。
 通りには街路樹も一定の間隔で植えられている。マニスというノルザムランド原産の広葉樹。イルトンランドでは珍しい木だ。特殊な樹液を分泌することでも知られているが、それよりも思わず見とれてしまいそうなほど深い緑色の葉や、見事なほど伸びる豪快な枝ぶりが美しい木である。しかし…今は手入れが行き届かず、ほとんどが立ち枯れてしまっている。生き残っているものでも葉の数は少ないし、枝ぶりも貧弱だ。
 過去には街道の重要な拠点で、ここらは交易で一発当てた金持ち商人達しか住めない豪勢な住宅街だったのだ…と言っても今は誰が信じるだろう。

 そんな幽霊屋敷の玄関アーチにはちょっとしたひさしがあって、これくらいの雨なら十分に避けられる。そこに背の高い女性が一人、錆びた支柱によりかかって腕を組んだまま、どんよりと曇った空をぼけっと見上げている。足元には大きな荷物と…『薬草アリマス』と書かれたのぼり。
 少女?はととっと駆け寄ると…小さく開いた手を女性の目の前へと上げて、軽く振って見せる。しかし気づかない。上を向いているからだろうか。今度は背負っていた傘をさらに背中へと傾けて、思い切りぐん、背伸びをしながらもう一度手を伸ばす。こうしないと高さが合わない。それでも相手は気づかない…いや、マニスの街路樹の間を忙しそうに跳びまわっていた頭の色がちょっとおかしいカラスが気づいた。かぁ、とどこか気の抜けた声をあげる。
「え?」
 もう一度ぐん、と背を伸ばして…。
「あれ? エマ? あら…いや、なんか久しぶり」
「……」
「へえ…ちょっとは背が伸びたかな…?」
 と言いながらしゃみこむ。今度は顔の高さがきっちりと合う。しかしエマ、と呼ばれた少女は仮面のような顔でうなずいて見せるだけ。
「…ごめん。忘れてた。あんた、しゃべれないんだったっけ…」
 初めてエマは、はにかんだように、にこっ、と…年に合った表情で微笑んだ。

 これくらいの霧雨を気にしていたら行商はできない。ドリスは勢いよく背負子を担ぐと、のぼりを立てる。神経質に傘を差しているエマに並ぶように歩き出す。背の高さの違いがありすぎるのでどうにも話はしにくいようだが。ちなみにファイーナはエマの傘をちらっと見てからのぼりの上にとまった。どこか眠そうにふらふらと首を揺らしている。
「どう? あいつ、まだやってるの?」
 傘の柄を器用に小脇に抱え込んで、帳簿らしい紙束をぺらぺらとめくっていたエマはまぶしそうにドリスを見上げて…こくっとうなずいた。ちらりと雨粒が顔に降りかかってしまう。
「そっかあ…まだやってるんだ。場所は? 変わってない。うん、分かった。エマは…御用聞き? じゃあまた後でね」
 軽く袖で顔を拭ってからもう一つうなずくと、エマは小走りに去って行った。

次ヘ進ム


014「休憩時間 2」ヘ016「オークション」ヘ

「TheRootSeller」正伝Topへ TOP ページへ